第7章 総括
職業安定行政史もようやく終わりに近づいた。ここでこれまでを総括し簡単に行政の歩みをふりかえってみよう。
いうまでもなく職業紹介とは、求人者と求職者との間に、雇用関係の成立をあっ旋することである。その職業紹介を中核として、日本の職業安定行政は進展してきた。
近代的な雇用関係は、近代経済がスタートした明治以降に生まれたといわれる。しかしそれ以前にも、現代の雇用とあまり変わらぬ労働形態があった。例えば、古くは律令社会の頃の和雇(あまないやとい)がそれである。徳川の封建時代には、奉公という名の雇用制度が発生し発達した。江戸では、人口が増え、経済が興って、労働力の需要供給が活発となり、就職をあっ旋する営利の職業紹介業者が誕生した。桂庵(けいあん)、口入屋、人入れ稼業等々の名称でたいへん繁盛したものである。およそ330年の昔のことであった。それらを人宿(ひとやど)と呼ぶ公用語で統一し、監督するのは町奉行所であった。しかし数百に上る人宿を直接取り締まるのは難しく、幕府は番組人宿と称する組合組織を作らせて、業界の自主規制を進めた。
明治の世になっても、営利職業紹介事業の時代が続く。しかし明治39年、救世軍が東京の芝で、無料の職業紹介所を開いた。貧者救済の発想からである。これを機会に民間の手による無料の職業紹介事業が広まったが、その奉仕活動には限界がある。明治44年、国庫の補助を受けて、東京市が芝と浅草に公立無料の職業紹介所を開設した。
大正10年、職業紹介法が制定された。職業紹介所の設置主体は市町村、職業紹介は無料、国はその経費について補助する、などが主な内容であった。第一次世界大戦後の不況から離職者が続発した。大正12年の関東大震災による罹災失業者の多発が、失業情勢に追い打ちをかけた。失業の深刻化は社会問題化し、大正14年の冬には、6大都市で土木工事を主体とした失業救済事業が実施されるようになった。
昭和の始めは、都市でも農村でも、失業や窮貧で苦しんだ時代であった。昭和4年のニューヨーク・ウォール街の株式大暴落による世界大恐慌は、日本の不況に拍車をかけた。
昭和6年、満州事変勃発。戦火は中国全域に広がって、同12年には支那事変となる。軍隊の動員、軍需生産の増強で、労働力は著しく不足するようになった。長く失業者対策にあけくれてきた職業安定行政は、一転して軍需労務の充足に頭を痛めることになった。
昭和13年、職業紹介法の大改正で、職業紹介所は国営となった。市町村の行政区域にとらわれず、全国に打てば響くような職業紹介活動の展開を企図したものであった。「懇切、公正、迅速」の執務の3原則が示されたのもこの時である。
戦局はさらに拡大し、昭和16年には中国のほか米、英、オランダも敵にまわしての大東亜戦争に突入する。労働力は枯渇した。雇入れや解雇の制限、徴用、女子挺身隊、学徒勤労隊など、国家総動員法に基づく戦時労務統制が一段と厳しくなった。自由な意思を前提とした職業紹介は、姿を消した。就職も退職も、そして雇入れも解雇も、全く自由が認められない冬の時代が続いた。
敗戦の日、昭和20年8月15日。この日を境にして職業安定行政は大転回をとげていく。戦争に敗れた日本には、連合国軍が占領し駐留した。そして日本を民主化するための革新的な占領政策が推進された。戦争責任の追及、軍隊の解散、財閥の解体、農地の開放、教育の改革、労働の民主化などがそれである。職業安定行政も例外ではない。戦時労務統制を拭い去って、民主的なサービスを基調とする行政への脱皮が急がれた。
しかし世相は、経済の混乱、インフレの急進、食糧の欠乏などで、混とん極まりないものであった。労働者の勤労意欲は薄れ、戦災の打撃や生産の減退などで失業者は増える。さらに、軍隊からの復員者、海外からの引揚者などが加わり、失業情勢は深刻化した。職業安定機関は、膨大な失業者の対策に追われた。
その一方で、至上命令である進駐軍関係労働者の調達や石炭増産のための炭鉱労働者の確保に、奔走しなければならない日々であった。
職業安定法、失業保険法、緊急失業対策法が、相次いで制定された。昭和22年には、労働省が新設された。行政手引や監察の制度も創設され、行政運営の体制は整えられていった。それらの実施は、GHQの強力な指示指導によるところが大であった。それに自助努力も加えて、新しい時代にふさわしい職業安定行政の基盤づくりが展開されたのである。
昭和27年、7年間の占領を終え、ようやく日本は独立して一人歩きが出来るようになった。昭和25年の朝鮮動乱による特需景気を契機として、日本の経済は一進一退を繰り返しながら、復興に向かう。雇用量も次第に伸び求人も増えていく。職業安定行政も、雇用情勢の好転にあわせて大きく進展した。
昭和30年代の後半から40年代は、日本経済の高度成長期である。産業界の活況は労働市場の様相を大きく変え、雇用面での改善も一段と進んだ。職業安定行政も失業対策主流の時代から、総合的な雇用対策を必要とする時代に移った。このような情勢に対応するために、雇用関係の多様な立法が相次いだ。職業訓練法、駐留軍関係離職者や炭鉱離職者の臨時措置法、身体障害者雇用促進法、雇用促進事業団法、港湾労働法、雇用対策法、雇用保険法などがそれである。特に雇用対策法は、積極的な雇用政策を推し進めるための基本法であった。この法律に基づき、中期的な見通しに立っての雇用対策基本計画が定められる。これには、完全雇用を実現するための方向と職業安定行政の進むべき道が示されている。
昭和48年のオイルショックは、日本経済に著しい打撃を与えた。経済の基調は、高度成長から安定成長へと変更を余儀なくされた。厳しい不況が訪れ、雇用調整が活発化し、失業者が増える。昭和50年代に入ると、輸出の急増などで景気は回復の兆しを見せた。しかし米国を始め世界各国との貿易摩擦は激化し、日本の経済は苦境に立たされる。円高不況がそれに追い打ちをかける。こうした情勢は、直ちに雇用や労働市場に大きな影響を与えた。その対策を担う職業安定機関の出番が、ますます増えたことはいうまでもない。
こうして職業安定行政は、経済や社会の変転に即応しながら、幾山河を歩み続けてきた。これからも国民の期待を背に、限りない前進を続けることであろう。ぜひ続けてもらわなければならない。
長い歴史の中で、職業安定行政は幾変遷を重ねてきた。法令、行政の体制、施設の態様、業務の種類や内容、執務のあり方等々。さまざまな面でさまざまな変化があった。
例えば職業安定行政の第一線機関の名称を見ても、時代の流れを反映しての改変が見られる。名は体を表わすということであろう。
江戸時代の職業紹介機関は、公用語で「人宿」といい、職を求める奉公人の一時的な寄宿所をも意味した。明治5年、東京府は営利紹介業者の取締規則を制定した。この中では「雇人請宿」とし、求職者の身元保証をも行わせている。明治39年に救世軍が東京の芝で始めた無料の職業紹介機関は、「職業紹介所」と呼ばれた。大正10年に制定された職業紹介法でも、この名称が使われている。昭和13年の職業紹介事業の国営化に当たっても、「職業紹介所」の名はそのまま踏襲された。昭和16年には「国民職業指導所」に、同19年には「国民勤労動員署」に改められた。前者には、国民の職業指導を徹底して、国家が要請する軍需産業へあっ旋しようとする意図がくみとられる。後者には、戦局のひっ迫で枯渇した労務給源を、徴用や勤労報国隊など国民全体の勤労動員で賄おうとする、戦時労務統制の実施機関に変貌したことが表れている。昭和20年の終戦直後には、戦時色を拭い去って「勤労署」と変わる。現在の「公共職業安定所」に改称されたのは、昭和22年4月8日であった。新しい時代の公共的なサービス機関としての命名である。その年制定された職業安定法にも、そのまま使われた。
こうした名称の変遷にも、時代の推移に対応してきた職業安定行政の姿や、携わってきた先人の労苦がしのばれるところである。
施設にも職員にも変革があった。公立の職業紹介所の頃は、独立の庁舎のあるところはそれほど多くはない。たいていの町村では、役場の書記がその庁舎の一隅で兼務で執務していた。昭和13年の国営直前の職業紹介所(718所)の専任職員は1所平均約3人で、1人のところが約半数であった。それが国営化(385所)により職員は1,907人から6,700人に増え、1所当たり約17人となった。現在(昭和62年3月末)の公共職業安定所は481所、職員は1万2,847人で1所平均27人。独立した庁舎を構え、内部の設備も充実して、もはや昔の姿をうかがうべくもない。
取り扱う業務の種類も増え、年とともに多様化していく。かつては職業紹介一本槍であった第一線の業務に、戦後は失業保険が加わり、その後雇用対策関係の多様な業務が幅広く取り入れられた。
取扱いの実績を職業紹介による就職者数で見てみよう。統計報告が整備された大正8年から昭和60年までの66年間、一部の推計を含めて就職者数は約9,000万人。これは常用、臨時雇用の取扱数で、日雇紹介の就労者数を除いたもの。ただし、昭和18年から同22年までは、戦時中で職業紹介の実績がなかったり、戦後の混乱で統計がとれなかったりしてブランクになっている。この数からだけでも職業安定機関が、国民の就職の確保に、企業の求人の充足に、ひいては労働者の生活安定、産業の興隆に果たした役割は大きなものがあるといえよう。
職業安定行政の長い歴史。その歴史の前にたたずんで、昨日をしのび、今日をみつめ、明日を想いながら、職業安定行政の限りない進展を念ずるものである。
あ と が き
自分の書き続けたものが、1冊の書にまとめられるということ。それは書いた者にとって、うれしくもまたありがたいことです。しかしそれには、意外にも大へんな手間がかかることに驚きました。それだけに、企画から編集、印刷、刊行に至るまで、いろいろとお世話になった方々に、心から感謝している次第です。
この「職業安定行政史」は、労働省職業安定局の広報誌である「職業安定広報」に連載したものです。それは、昭和58年6月から3年10ヵ月に及ぶロングランで、90回続きました。
職業安定行政に関する研究については、戦前から名著がたくさん出ています。しかし行政の歩みを時系列的に記述したものはほとんどありません。そこで、長く職業安定行政に携わった者として、行政の沿革を若い人向きに書いてみたら、と思い立ってみたわけです。早速職業安定広報の編集陣の快諾を受け、援助をいただくことになりました。できるだけ1回読み切り、文章はわかりやすく、関係のある写真も載せ、職業安定行政以外の労働行政のあらましにも触れる、そういう欲ばった構想でした。資料の収集で難渋したり、思うに任せぬ筆力の足りなさを歎きながら書き続けたものです。連載の途中で、読者の方々から感想やご意見がかなり寄せられました。それが私を励ます何よりの支えとなりました。
1冊の本にするとなると、手を加えるところが多くなります。1回読み切りとして書いたために無理した点や、勉強不足で舌足らずの点などを補正しなければなりません。こうしてやっと出来上がったのが本書です。もう少し時間をかけて手を入れたいところもあります。けれども、これが労働省の職業安定広報の1,000号記念出版物ともなるので、あまりゆっくりもできません。一通りの見直しをすませ、やっと刊行の運びになりました。刊行後も、引き続き検討して内容の充実等に努めていきたいと思っております。
本書には、労働省職業安定局の岡部晃三局長から、ご丁重な序文を項戴しました。身にあまる光栄で、ありがたき極みです。冒頭にも書きましたが、本書の刊行に格別のご配慮を賜わった労働省職業安定局雇用政策課廣見課長、山地広報担当官、小木曾係長以下広報担当の皆さま、雇用問題研究会の西村理事長以下の皆さまに、厚くお礼を申し上げます。各位のお力ぞえがなければ、本書は陽の目を見なかったと思います。
また、職業安定広報に連載中から、次の文献や資料などを引用または参考とさせていただきました。著者や編者やご教示下さった方々に深く感謝しております。
〈参考文献〉 | |
雇用の歴史 | 牧 英正氏著 |
江戸の社会構造 | 南 和男氏著 |
江戸っ子の世界 | 南 和男氏著 |
江戸時代漫筆(上・下) | 石井良助氏著 |
天下の町人 | 西山松之助氏著 芳賀 登氏著 |
江戸から東京へ | 西山松之助氏著 小木 新造氏著 |
職業紹介事業の変遷 | 豊原又男氏著 |
国営前の職業紹介事業 | 豊原又男氏著 |
労働市場の統制 | 遊佐敏彦氏著 |
女工哀史 | 細井和喜蔵氏著 |
職工事情 | 農商務省 編 |
大阪府社会事業史 | 大阪市社会部編 |
職業紹介法施行十年 | 中央職業紹介事務局編 |
労働行政史(第一巻―第三巻) | 労働省 編 |
労働行政三十年の歩み | 労働省 編 |
職業安定行政十年史 | 労働省職業安定局編 |
国民百科辞典 | 平凡社 編 |
関係資料、写真等 | 安田辰馬氏 |
同 | 小野磐彦氏 |
青蛙房「絵本風俗往来」
雇用促進事業団
雇用促進事業団雇用職業総合研究所
東京都飯田橋公共職業安定所
福井県武生公共職業安定所
石川県七尾公共職業安定所
東京都
大阪府
鹿児島県
福岡県総務部
鶴岡市
毎日新聞社
朝日新聞社
共同通信杜
労働新聞社
井上正夫氏
(順不同)