職業安定行政史

第1章 江戸時代

職業紹介事業の発生とその規制

伝説大和慶安

職業安定行政の最も大きな柱は、職業紹介である。その職業紹介は、求人者と求職者の間に立って雇用関係の成立をあっ旋することをいう。したがって、雇用という労働関係が存在し、関係者の間に雇用関係が成立しなければ職業紹介はありえない。
 もし自由に職を求め、あるいは自由に人を求めることが出来れば、それをあっ旋する者が現われる。このようなあっ旋――職業紹介が活発になり、それを継続することになれば、職業紹介を商売とする者が現れてくるのは必然である。しかし、雇用の機会が極めて少なく、そのうえ自由な職業選択が難しかった時代には、職業紹介を専業として営む余地はまだなかったようである。
 職業紹介が商売として始められたのは江戸時代に入ってからである。その職業紹介事業の始祖は、大和慶安(やまとけいあん)だというのが伝説になっている。承応の頃、江戸の木挽町で医師をしていた慶安は、医業をやめ、2人の浪人を使って、職業紹介事業を創(はじ)めたといわれる。承応といえば4代将軍家綱の時代で、1652年前後のことである。慶安はなかなかの世話好きで、出入りの患家から、婚姻のとりもちや奉公人のあっ旋を頼まれることが多かったそうである。そのうち副業のあっ旋が忙しくなり、それに専念することになったというわけである。営利職業紹介事業は、昭和の初めまで一般に口入屋とか桂庵と呼ばれてきた。この桂庵という呼び名は、元祖の慶安の名から出たといわれている。

職業紹介事業発生の事情

なぜ、その頃江戸で職業紹介事業が興ったのか。職業紹介事業が成り立つには、その前提として求人と求職がなければならない。その辺の事情を考えてみよう。
 まず、労働力の需要の面である。徳川幕府は全国を平定すると、日本全土を分割して、大名や小名に領地を与えた。そして一方で、「士農工商」の四民の制を設けた。領主は城を構え、それを武家屋敷で囲む。さらにその周辺に、職人や商人が住み、生活に必要な物を作ったり売買したりする。これを町方という。それ以外の地には、食糧を生産する農民が配せられた。これが村方である。こうして全国に、大なり小なりの城下町が形成された。一番大きな城下町はなんといっても江戸で、最盛時には100万の人口を抱えていたという。続いての大都会は、人口40万人の大坂や京都であった。このような都会になると、商売も繁盛し、そこに働く奉公人も増える。職人の仕事の量も多くなり、それなりに人手が必要になる。
 また徳川幕府は、参勤交代の制度をしいた。領主は、1年交代で領地と江戸の生活を繰り返す(関東地方では半年交代だったようである)。領主の移動に従って、家臣の全部を江戸へつれていくわけにはいかない。留守中の藩政の運営や隣国との関係もあり、さらに経費もばかにならないからである。そこで家臣の移動は最少限にとどめ、不足の労働力は江戸で調達する合理策がとられた。領主だけでなく一般の家臣も、その身分、禄高、格式などに応じて、奉公人を整える必要があった。しかし常時雇っておく余裕がない場合には、時に応じて臨時に雇い入れるということになる。こうして、江戸の武家屋敷でも、かなりの労働力の需要が生まれた。
 一方、労働力の供給の面でも、江戸には職を求める者がたくさん集まってきた。幕府は農政について、「百姓共を死なぬよう生きぬようにして収納申付けよ、農民と胡麻の油は絞れば絞るほど出るものなり」として、農民から出来る限り税金を絞りとる政策を徹底した。そのため、農村では食えない二、三男や娘たちは、口べらしのため職を求めて江戸へ出て来た。
 また関ヶ原の決戦で敗れた西軍の武士達は、主家がつぶれて失業した。多くの浪人達が仕官の途を求め、江戸へ集まってきた。おいそれと仕官の機会がない彼らは、それまでのつなぎに働き口を探した。
 こうして大都会の江戸には、労働力の需要が生まれ、一方で多くの求職者が集まった。これらを結びつけるのが職業紹介である。それを商売とする業者が、そんな事情の江戸で生まれたのも、必然的な成り行きだったことであろう。

大和慶安が始めたといわれる江戸の職業紹介事業は、時流にのってヒットした。それをまねて職業紹介業者が続出し、江戸で最もはやる商売の一つにあげられるほど繁盛したようである。幕府の調べでは、業者の数も宝永7年(1710年)には390、嘉永4年(1851年)には482と増えている。これには、同郷の者とか、または親類縁者を少数寄宿させてあっ旋するものは除かれているので、実際にはもっと多くの紹介業者がいたものと思われる。
 その頃の言葉に「いきは深川、いさみは神田、人の悪いは飯田町」というのがある。紹介業者の多かった地域は、飯田町、麹町、西久保、小石川餌差町などで、飯田町はその代表であった。
 これらの紹介業者は、口入屋、肝煎(きもいり)、人入れ稼業、桂庵、奉公人宿、他人宿、受人宿、請宿など、さまざまな呼び名で呼ばれていた。初めの頃は、例えば口入屋では武家の奉公人を、肝煎では職人を主として扱ったようである。しかししばらくたつと、その区分は乱れてしまった。芝居でおなじみの幡随院長兵衛は実在の人物で、江戸の花川戸で人入れ稼業をやっていたということで有名である。こんなふうに呼び名が多いと、取り締まる側からすれば面倒である。そこで公用語としては、「人宿」ときめられた。大坂のほうでは、「口入れの者」が公用語とされた。

人宿の職業紹介

ここでその頃の職業紹介がどんなふうに行われていたかを見てみよう。求人の申し込みがあると、「人宿」では求人条件にあわせて数人の候補者を選び、求人者のもとへ彼らを引率して行く。求人者は、その中から気に入った者を選び、給金を決める。選ばれた者は、翌日から数日間、お目見得として通いで働く。お目見得とは、奉公人となろうとする者が求人者に選択の機会を与えるために、その家に出向いて仮に働くことである。お目見得期間が終わると、人宿から採否を確かめに行く。採用が決まると、奉公契約が締結され、給金の一部を内金として受け取り、住込みで働くことになる。もし1回目のお目見得で求人者側に不満があれば、候補者の選定、引率、お目見得が何回も繰り返される。こうした紹介の手続きはかなり面倒なため、次第に簡略化された。例えば男子の紹介では、求職者に紹介状を持たせて3日間のお目見得をさせ、4日目に人宿から採否を確認に行くことにした。
 奉公契約が成立すると、奉公人請状が雇主に対して提出される。この頃の奉公契約の当事者は、雇主と奉公人の父兄で、「父兄がその子女を奉公に出す」という考え方であった。したがって奉公人請状は、いわば就職者の身元引受書のようなもの。就職者の父兄、名主、縁者に人宿も加わって、その奉公を誓約し保証したものである。この請状には、給金や奉公の期間を明記した。そのほか、本人がキリシタンではなく、かつ公儀や家中の法度、お家の作法を守り背かないこと、逃亡や損害を与えた場合の弁償なども保証している。
 人宿は、職業の紹介をする一方、このように就職者の身元保証の役割を担っていた。さらに、江戸へ出て来た求職者を、職に就くまでの間寄宿させてもいた。こうした事情から、人宿の呼び名にも、それらの機能を表すようなものがつけられていた。例えば職業の紹介については、口入屋、肝煎、人入れ稼業、奉公人宿。身元の保証については、受人宿、請宿。宿舎の提供については奉公人宿、受人宿、他人宿、請宿、人宿といった具合である。

人宿の主な収入は、口入料、口銭、世話料などといった紹介の手数料と、奉公人請状に連帯保証人として印判を押す判賃(はんちん)である。
 紹介手数料は、雇主、奉公人の双方から、賃金の10%ないし15%をとった。奉公人請状の判賃の額は、1分(1両の4分の1)が相場であったようである。当時の川柳に、“一分さえ出せば生国より存知”というのがある。判賃の1分さえ出せば、たとえそれまで見ず知らずの者でも、生まれ故郷のことまでよく知っているかのように身元を引き受けてくれると諷刺したものである。江戸の町民は諷刺が得意である。人宿を皮肉ったものが古川柳によく登場する。
“けいあんは、ここでは九といいなさい”
“ちとひけば、けいあんそれでよしといい”
“ふりそでを、着てけいあんは来なといい”

第1の句は、求人条件は20歳未満なのに、手持ちの求職者は20歳を過ぎている。そこで、少し若づくりをさせ、お目見得のときは19歳と言えと指導しているのである。次のは、三味線のひける女という求人条件。ひかせてみるとあまりうまくない。それでもひかないよりはましといって紹介をする。3番目のは、あまり貧相な姿では雇ってもらえそうにもない。ふりそででも着て、若作りで来なさいとアドバイスをしている。

人宿の自主規制

数多くの人宿が発生すると、中にはたちのよくない人宿も出てくる。運営にもいろいろな問題が起こる。例えば、身元のはっきりしない無宿の者や、無頼の者を紹介する。奉公人と共謀して、奉公先を転々と替えさせる。こうしたことは、紹介手数料や奉公人請状の判賃を荒稼ぎするための手段であった。この無責任さや不正の行為は、だんだん激化する傾向にあった。人宿を監督する機関は町奉行所である。1ヵ月ごとに、北と南とが交替で開く月番制の町奉行所では、法令を出し、行政、裁判も行い、さまざまな江戸の民政を所管していた。数多い人宿を直接取り締まるような余裕はない。そこで宝永7年(1710年)、その時の調べで390あった人宿に、30単位で13の組合を作らせた。この組合を、「番組人宿」という。人宿は組合への加入を強制され、町奉行所は組合を通じて人宿運営についての指示、指導を行った。組合に、人宿自体の不正をなくすこと、保証人となった奉公人を監督することなど、業界の自主規制を求めたわけである。

番組人宿での申し合わせに、例えばこんなものがあった。

  • 奉公人の身元をよく調べて、出所不明の者は紹介しないこと
  • 利得に迷って、不正な紹介をしないこと
  • 奉公人が逃亡したときは、人宿に代わりの者を差し出させ、同業者間でよく連絡をとり早急に尋ね出すこと
  • 奉公人には、奉公先の心得を守らせ、風儀をよくさせること

このような申し合わせは、人宿運営の基本原則になっていた。あっ旋した奉公人が、奉公先で不義理をしたり、被害を与えて逃亡するような場合が起こる。そうしたとき人宿は、他の身元保証人と一緒にその責任をとらねばならない。逃げた者を探し出す。それが難しければ、代わりの者を奉公に差し出すことになる。逃亡者が受け取っていた賃金の弁済、持ち逃げした物品の弁償ということも起こってくる。損害の賠償については、番組人宿に加入している各人宿に負担させることもあった。逃亡者については、同業者に急ぎの回状を送り、取り押さえの協力を求める。本人の特徴や手口などを書いた、いわば不良求職者通報を回すわけである。
 この「番組人宿」の制度は、もちろん人宿自体の監督が主眼であった。それと同時に、人宿から紹介される奉公人を掌握して取り締まるねらいもあった。将軍家のお膝元である江戸市中の、治安取締対策の一環ともなっていた。しかしせっかく作ったこの制度も、なかなか思うような効果が上がらず、正徳3年(1713年)に廃止された。亨保15年(1730年)には再び復活され、さらにまた廃止、復活を繰り返して、幕末に至っている。

人宿の書き入れ時

人宿の書き入れ時は、奉公人の雇用契約を切り替える出替わり期である。七草などの五節句や正月も忙しい時期であった。
 徳川幕府は、武家について厳しいきまりを要求した。身分、格式、禄高等に応じて供廻りをそろえるのも、そのひとつであった。物価は上がるのに収入はそのまま据え置かれていた武士階級は、苦しい生活のやりくりとして、人件費をきりつめざるをえない。常時抱えていた奉公人を減らし、必要があればその都度臨時に雇い入れることになる。今でいうならば、常用雇用を少なくし、必要に応じてパート、アルバイトを雇うといったところである。
 正月は、とりわけ儀式や上司へのあいさつ回りなどがあり、それなりの供ぞろえが必要である。そこで人宿に、武家奉公人の求人が殺到する。求人が大幅に増えると、求職者が不足し、
“出来あいの武士売り切れる松の内”

となる。松の内とは正月である。それでも足りないと、

“吹きとばされそうな侍、供のうち”

と体格の貧弱な者まで動員される始末となる。労働力の需給の情勢は、賃金にも微妙に影響してくる。

“日雇の供ねあがりの松の内”
“松がとれると侍百下がり”

下級の武家奉公人の日当は、職種や時代によって差があるが、おおむね200文前後の相場だったようである。それが入手不足の正月には、100文ほど値上がりする。けれども松の内が過ぎると100文下がって、もとの相場に戻るというわけ。賃金が労働力の需給関係に左右されるのは、今も昔も変わりがないようである。

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