第6章 昭和時代(3)(独立以後)
職業安定行政の推移
景気の好転と離職者対策
昭和27年4月28日、講和条約が発効し、日本は念願の独立を果たした。これで終戦以来7年にわたる連合国軍の占領が終わり、新しい独立の時代を迎えたわけである。
その2年前の昭和25年6月、朝鮮半島では南と北の衝突から朝鮮動乱が勃発した。韓国支援の国連軍が派遣され、一方で中国軍が北朝鮮を助けて参戦し、戦局は激化した。日本は国連軍の物資補給の後方基地となった。特需景気が起こり、それがそれまで停滞を続けてきた経済の復興の足がかりとなった。やがて景気は一進一退を繰り返しつつ、日本の経済は次第に高度成長期に入っていく。神武景気、なべ底景気、岩戸景気などの言葉が生まれたのはその頃である。
経済が繁栄に向かい雇用情勢も好転しようとするなかで、景気とは関係なく離職者対策が、職業安定行政の大きな課題として登場してきた。駐留軍労働者や炭鉱労働者の離職対策がそれであった。これらの労働者は、敗戦直後の混乱期に職業安定機関が命運をかけて募集や確保に努めたところである。それが10年後には、その離職対策に奔走することとなった。激動の時代とはいえ、情勢変転の厳しさに感慨深いものがある。
日本を占領していた連合国軍は、日本の独立後は駐留軍と改め、撤退を始める。朝鮮動乱が終わると、国連軍も本国へ引き揚げる。これらの軍関係の業務に従事していた労働者は、働く職場を失うことになる。かつては繁栄を極めた駐留軍の基地周辺も、一転して失業者が滞留し社会問題化するに至った。このような事態に対処して、昭和33年に駐留軍関係離職者等臨時措置法が制定された。駐留軍関係離職者等対策協議会の設置や再就職の促進を中心とする総合的な対策を盛り込んだものであった。
炭鉱離職者対策
炭鉱労働者についても、駐留軍労働者とよく似た経過をたどった。石炭は国内で生産出来る日本の最重要のエネルギー資源であった。終戦後も重点的に増産が続けられ、経済復興の原動力とされていたものである。しかし石油を中心とするエネルギー革命が急速に進行してくる。昭和30年には、石炭鉱業合理化臨時措置法が制定され、合理化基本計画が策定された。炭鉱では石炭の不況で、それまでかなりの人員整理が行われていた。それがスクラップアンドビルドの合理化で、非能率の炭鉱は買い上げられ、廃鉱とされる。そこからは、大量に集中的に離職者が発生することになった。
炭鉱に生涯をかけ、それに長く依存してきた炭鉱労働者やその家族には、炭鉱や産炭地に強い執着がある。そこを離れての労働や生活は至難のことであった。失業者の多発、滞留の激増で、廃山が相次ぐ産炭地では社会不安が深刻化する。炭鉱離職者のための総合対策が急がれた。炭鉱離職者臨時措置法が制定されたのは、昭和34年である。その主な内容は、広域職業紹介や職業訓練の拡充、緊急就労対策事業の新設、再就職のための援護措置を行う炭鉱離職者援護会の設置等であった。炭鉱離職者援護会は昭和34年に発足した。政府の職業安定対策に呼応して、炭鉱離職者に対する移住資金や職業訓練手当の支給、職業訓練受講者の宿泊施設の設置、労働者用宿舎の貸与、その他職業講習の実施、生業援助などの援護業務を行うこととなった。
石炭合理化の進行につれて、炭鉱離職者対策も強化されていった。再就職のための職業紹介や援護策が拡充された。昭和36年には雇用促進事業団が設立された。国が行う職業安定行政と表裏一体となって、雇用促進の諸事業を推進するためである。さきに設置された炭鉱離職者援護会は、これに吸収された。
炭鉱離職者のためにとられた一連の施策は、これまでにない充実したものであった。それらはその後に実施される雇用対策の一つの原型ともなって、行政の展開に先導的な役割を果たしたといえよう。
炭鉱離職者対策の第1の柱は広域職業紹介であった。職業安定法制定の当初から、職業紹介の大原則は通勤圏内でのあっ旋である。しかし産炭地には就職の機会が乏しく、どうしても広域のあっ旋が必要であった。そこで炭鉱離職者臨時措置法(第3条)に基づき広域職業紹介計画を立て、この計画に従い国をあげての職業確保の活動が進められた。
第2は求職手帳の発給と就職促進指導官による就職指導である。石炭鉱業の合理化による離職者には、特別の求職手帳が発給された。その手帳所持者には、就職に至るまでの間生活安定のために雇用促進手当が支給される。炭鉱に長く働いてきた人達は、一般に中高年齢者で産炭地以外の雇用の諸事情に疎く、再就職は容易ではない。家族ぐるみの移転就職も必要である。そこで就職促進指導官によりきめ細かな個別指導が実施された。これをケースワーク方式の就職指導と呼んだ。就職指導の過程では、必要があれば職業訓練や職業講習などの受講も指示された。
第3は行き届いた数々の就職援護策である。まず移住資金、職業訓練手当等の支給、労働者用宿舎の貸与、職業講習や講話の受講、生業資金借入のあっ旋、協力員などの制度がスタートした。次いで雇用奨励金、住宅確保奨励金、再就職確保奨励金、雇用促進住宅、移動宿舎、自営業の債務保証等の制度が実施された。これまで長い間、就職についての援護は職業安定行政の枠外とされていた。それが求職者の就職促進のための援護として、このように多様な新施策が実現したのである。まさに特筆大書すべきことであった。
炭鉱離職者臨時措置法制定当時の昭和34年度の稼働炭鉱は624鉱、それが昭和45年度には74鉱に減った。炭鉱に働く常用労働者だけを見ても、昭和34年度末の25万6,000人が昭和45年度末には5万7,000人に激減した。
昭和37年度から同45年度までの間の石炭合理化による求職者は18万1,000人。その96%に当たる17万4,000人が再就職、または再就業した。職業安定機関の紹介による就職者は11万6,000人、そのうち広域紹介による者は、4万9,000人を数えた。
日本の労働争議史上最大の規模という三池争議が発生したのは昭和34年である。三井鉱山三池鉱業所(福岡県大牟田市)での1,278人の指名解雇の通告に端を発した。282日に及ぶ苛烈な争議は、急激に進む石炭合理化の所産でもあった。なお、この三池鉱では昭和38年にガス爆発が起こり、死者458人、重軽傷者717人の大災害となった。さきの指名解雇の対象となった離職者、この罹災者の遺族、家族などの雇用確保が、職業安定機関の重要課題となったのはいうまでもない。
労働力需給関係の変化と雇用関係立法
昭和30年の後半から40年代にかけては、世界の驚異といわれた日本経済の高度成長期である。昭和43年度の国民総生産(GNP)は、自由諸国の中で第2位に躍進した。生産増強を図る産業界は、所要労働者の人集めに奔走した。企業経営の成否は、労働力の確保いかんによるとまで強調されたものである。そのような情勢下で、労働市場は大きく変貌した。
昭和30年代の10年間に、雇用労働者は約1,000万人増えた。完全失業者は100万人から60万人に減った。新規学校卒業者を中心に若い労働力の需要が急増する。新規中学校卒業者を例にとると、その求人倍率は、昭和30年度の1.1倍から10年後には3.7倍になった。この傾向は、年を追ってさらに強まっていく。容易に採用出来ない中学校の新卒者は、“金の卵”といわれ始めた。大学の新卒者については、早期の採用を競って“青田刈り”が出現した。入手不足は、若年層や技能者から深刻となり、やがて労働者全般に及ぼうとする勢いであった。一般労働者の労働市場も、求人の増加で求職超過が次第に緩和され、需給がほぼ均衡するまでに至った。これまでの日本は戦時中を除いて、常に人口の過剰に悩み、失業対策にあけくれてきた。それがここに至って、労働力不足の時代が訪れたのである。このような中でも、なお中高年齢者の就職難、地域的な労働力の需給アンバランスなどの問題はあったが、それについては別に改善の対策が進められた。雇用政策の理想ともいうべき完全雇用が、ようやく日本でも現実の問題として論議される段階に到達したのである。
こうした情勢をバックに、積極的な雇用施策が展開される。終戦後の職業安定行政は、職業安定法、失業保険法及び緊急失業対策法のいわゆる職安3法で運営されてきた。しかしこれだけでは、激変していく雇用情勢に的確な対応は出来ない。そこで法制の整備が急がれ、雇用関係の立法が相次いだ。その主なものは次のとおりである。
昭和33年 職業訓練法
同年 駐留軍関係離職者等臨時措置法
34年 炭鉱離職者臨時措置法
35年 身体障害者雇用促進法
36年 雇用促進事業団法
38年 緊急失業対策法及び職業安定法の一部改正
40年 港湾労働法
41年 雇用対策法
46年 中高年齢者等の雇用の促進に関する特別措置法
各種の雇用関係法
職業訓練法は昭和33年に制定された。職業訓練は、それまで求職者や失業者の職業補導は職業安定法で、事業主による技能者養成の指導援助は労働基準法で、それぞれ行ってきたところである。しかし経済の高度成長で技能労働者の不足は著しく、その確保難対策が重要な課題となった。これに対処して、職業補導、技能者養成に技能検定を加え、総合的な職業訓練制度を確立するのが新法のねらいであった。
就職を希望する身体障害者については、昭和27年から任意登録制を採用して、その就職あっ旋に努めてきた。しかし健常者なみの雇用の確保は容易ではない。昭和30年には、ILO総会で、身体障害者の職業更正に関する勧告が採択されている。このような情勢をふまえて、昭和35年に身体障害者雇用促進法が制定された。この法律で、新しい試みの身体障害者の雇用率の設定、職場適応訓練制度の導入が行われた。そのほか公共職業安定所の職業紹介、職業指導、職業能力の検査等の業務の充実、職業訓練の拡充などが図られることとなった。
昭和38年には、緊急失業対策法の大改正が行われた。失業対策事業の抜本改革を図るためである。失業対策事業の就労者は、昭和34年には36万人を数えた。その就労者は高齢化や固定化の傾向が目立ち、事業運営の面にもかなりの支障が表れてきた。法改正により、事業の適正な運営を図るため、事業主体に運営管理規程の制定が義務づけられた。また高齢者のため、高齢失業者等就労事業が創設された。就労者を定職に就かせる施策として、就職支度金の貸付、転職促進訓練の実施、雇用奨励金の支給などの措置も講じられた。就労者の失業対策事業への紹介は、それまでとられてきた数日間の継続紹介を行う方式が、昭和38年からは1月間の長期紹介に変わった。就労者の便宜を考えての就労現場直行制で、公共職業安定所の業務簡素化を併せてねらったものである。
緊急失業対策法の改正は、職業安定法の改正と合わせて行われた。失業対策事業就労者の労働組合は、この2つの法律改正を「失対打切り2法案」と称して、激しい反対運動を展開した。運営管理規程の制定や長期紹介の実施についても、強硬な反対が続けられた。
昭和38年の職業安定法の改正のポイントは、中高年齢層の失業者等に対する就職促進の措置の新設であった。
若年労働者は、労働力需要の激増から著しく不足していた。しかし中高年齢者については、就職難はまだまだ解消されてはいない。そこで中高年齢層の求職者には、就職促進手当を支給しながら、就職促進の措置を講ずることとなったものである。専門官による就職指導、手当の支給などの対策は、炭鉱離職者の場合と大差のないものであった。
昭和40年の港湾労働法の制定により、画期的な港湾労働対策が推進されることとなった。港湾労働力の需給のひっ迫、雇用秩序の維持の必要性などを背景にしての立法であった。雇用調整計画の策定、日雇港湾労働者の登録、日雇港湾労働者手帳の発給、雇用調整手当の支給、納付金の徴収、常用港湾労働者の把握、福祉対策の充実などがその主な内容である。6大港には、港湾労働専門の公共職業安定所が設置された。こうして、6大港における日雇港湾労働者のプール制が整備されたわけである。
昭和46年には、中高年齢者等の雇用の促進に関する特別措置法が制定された。この法律は、就職が困難な中高年齢者等に特別の措置を講じ、その雇用促進を図ろうとするものである。法律の内容は、中高年齢者についての適職の研究、雇用率の設定、雇用奨励措置、求職手帳の発給と就職促進の措置などである。本法により、今後の失業対策事業への就労は、現在の就労者で他への就職が困難な者に限られることとなった。今後新しく発生する失業者は、就職促進の措置で、民間企業への就職を進めることとされた。
雇用対策法と雇用対策基本計画
高度の経済成長の過程で、雇用失業面での改善はめざましく、就業構造の近代化は著しく進んだ。完全失業者は減少し、雇用問題の阻害原因の1つであった不完全就業も、次第に解消の方向に向かった。昭和40年代以降の雇用政策は、これまでの失業対策的な性格から、より積極的なものへの転換が必要となってきた。
その期待にこたえて、昭和41年に雇用対策法が制定された。これまでの職業安定行政関係の法律は、手続法的な性格が強かったり、雇用対策については個別的な施策を定めたものが主であった。それにくらべ、新法は雇用政策の基本法として、完全雇用の達成を目標とする画期的なものであった。雇用政策を国政全般の中に位置づけ、政府全体としてそれを重視し、一体となって実施する態勢の確立や、関係施策の総合的な推進をねらったものである。
雇用対策法に盛られた内容の主要な点は、次のとおりである。雇用対策基本計画の策定、職業指導及び職業紹介の事業の充実、技能労働者の養成及び技能検定事業の確立、職業転換給付金制度の創設、中高年齢者等不安定な雇用者の雇用の促進などである。
雇用対策基本計画では、おおむね5年程度の中期的な見通しに立って、雇用の動向と問題点を明らかにし、完全雇用を実現するための基本的かつ総合的な方向が明示されることになる。いいかえると、職業安定行政の進むべき道とよるべき指標が与えられるわけである。最初の基本計画は、昭和42年3月に閣議決定された。この基本計画は、その後数次にわたって策定される。その策定の経過を一括すると次のとおりである。
○第1次計画(昭和42年策定)――計画期間昭和42~46年度間- すべての人が適性に応じた仕事に就き、能力を発揮出来るようにし、その経済的社会的地位の向上を促進するとともに、国民経済の発展に寄与することを目標に、「完全雇用への地固め」が課題。
- 質量両面を兼ね備えた真の完全雇用を達成することを目的とし、「ゆとりのある充実した職業生活」実現のための条件や基盤の整備が課題。
- 「経済成長率低下のもとでインフレなき完全雇用を達成、維持すること」を目指して、雇用対策の積極的展開を図ることが課題。
- 「安定成長下において完全雇用を達成するとともに、来たるべき本格的な高齢化社会に向けての準備を確実なものとすること」が課題。
- 「今後に予想される急速な高齢化、産業構造の転換等に的確に対応するため、労働力需給のミスマッチの解消を図り、質量両面にわたる完全雇用の達成と活力ある経済社会の形成を目指すこと」が課題。
- (注)計画期間がダブっているのがあるが、それは情勢の変化に応じて計画期間を繰り上げたためである。
昭和39年、アジア大陸で初めての夏季オリンピックが、東京で開かれた。同45年には万国博が大阪で、同48年には冬季オリンピックが札幌で開催。同50年には、昭和47年に本土復帰した沖縄で海洋博が挙行される。こうして国際的な大規模行事が続々開催出来たのは、それだけ日本の国力が充実したことを意味する。その国力の支えとなったのは、大きく伸長した経済力であった。その経済力を背景に職業安定行政は雇用対策を中心に進展する。
労働市場センターの設立
雇用対策基本計画で策定された重要施策を実施に移すのは、第一線の公共職業安定所である。そこで雇用対策基本計画では、その都度職業安定機関の体制整備の必要性が強調されている。その一策として、コンピュータによる業務処理がある。
昭和39年、労働市場センターが設立された。全国の職業安定機関をIDPシステムで結び、近代的な労働市場の育成を図ろうとするねらいからである。そのシステムは、大型コンピュータとデータ伝送装置から成っていた。
システム導入の直接の動機は、昭和38年に、失業保険で被保険者期間の通算制度を採用したからである。それまでは1人の労働者が2以上の事業所に雇用されても、被保険者期間は通算されなかった。その通算の計算事務は手作業では至難である。そこで、被保険者の雇用データを労働市場センターに集中し、大型コンピュータで通算業務を処理することにしたわけである。
全国的なネットワークが実現するならば、労働市場センターの機能は、職業紹介サービスや職業情報の提供にも活用出来る。昭和40年には広域紹介の連絡や労働市場関係情報の提供業務が始まった。システムのオンライン化に伴い、同44年には、リアルタイムの職業紹介(即時照合による紹介)が阪神地区で開始され、漸次太平洋沿岸地域に拡大された。このリアルタイムの紹介には、公共職業安定所にMRPの端末装置を置く。求職票の該当欄をマークして入力すると、求職条件にかなった求人情報が打ち出されるという仕組みであった。同46年には、ディスプレイ装置による雇用情報の提供サービスが始まった。こうした業務は年を追って拡充されていく。やがて雇用保険の適用給付業務の全般を即時処理する画期的なトータルシステムが実施(昭和56年)される。さらに労働力需給のミスマッチ解消のための「総合的雇用情報システム」の構想に発展していくのである。
職業安定行政の業務処理に機械装置が登場したのは、何も労働市場センターのシステムが初めてではない。例えば失業保険の支払内訳書や納入告知書の作成には、昭和30年代から機械が使用された。炭鉱離職者の職業紹介には、昭和37年からテレックスが使われた。またその適格あっ旋のためには、北九州職業安定事務所でカード選別機が使用された。これらの機械装置は、労働市場センターの拡充とともにその使命を終えたのはいうまでもない。
失業保険制度から雇用保険制度へ
昭和22年に発足した失業保険制度は、当初は一般失業保険だけであった。しかも適用業種としては、建設、郵便、電信電話、保健衛生、興業、接客娯楽等の事業は、強制適用の範囲から除かれていた。給付日数は一律に180日、保険料は1000分の22(被保険者及び雇用主の負担は各々1000分の11)であった。
なお、失業保険制度の創設によりその給付が開始されるまでには、最短6ヵ月が必要であった。この期間の対策として、失業手当法が制定された。被保険者期間が満たないため失業保険給付を受けられない者に、国庫の特別負担で失業手当を支給することとされたものである。
その後情勢の変化に即して、失業保険制度の改正が逐次行われる。その改正は、昭和50年に雇用保険法が制定されるまでに30回に上っている。その中から改正のめぼしいものをあげてみよう。
- ○昭和24年 緊急失業対策法の施行にあわせて、日雇労働者の生活安定のため、日雇失業保険制度が創設された。
- ○昭和30年 給付日数について4段階制が導入された。被保険者期間の長短で、90日、120日、180日、210日となった。被保険者の資格得喪の確認制度がスタートした。それまでは、被保険者は事業所単位に、数として計算され、個人ごとの把握はなかった。被保険者個人の確認は、被保険者期間の確定、不正受給の防止、保険料の適正徴収の面からも必要であった。また、被保険者等の福祉の増進のため設置する失業保険福祉施設の法的根拠が明記された。
- ○昭和33年 5人未満の事業所への適用促進のため、特定賃金月額制度の導入、保険料納期等の特例が設けられた。失業保険の諸届、保険料の納付等の事務を、小規模事業主に代わって行う失業保険事務組合の制度が発足した。
- ○昭和35年 受給資格者が所定給付日数を残して就職した場合、その残日数に応じて就職支度金を支給する制度が始められた。職業訓棟や広域紹介の対象者で就職対策を要する場合、給付日数延長の特例が設けられた。
- ○昭和38年 被保険者期間通算制度が創設された。2以上の異なった事業所に雇用される者の被保険者期間を通算することになったものである。扶養加算、技能習得手当、寄宿手当、傷病給付金の制度が新設された。
- ○昭和47年 昭和44年の法律改正により、5人未満事業所に対する適用拡大、季節的受給者への給付の適正化、失業保険料を労災保険料とあわせて“労働保険の保険料”としての徴収の一元化等が実施された。
昭和50年に雇用保険法が制定されて、失業保険法は発展的解消を遂げる。失業保険が雇用保険に改められるまでの28年間、失業保険制度の歩んだ道は必ずしも平坦ではなかった。例えば季節出稼者など短期循環受給者の処理には、絶えず難渋を伴った。また女子受給者への濫給や保険収支の悪化も、その時々の重要課題であった。けれどもそれらの難問を乗り越えて、戦後の雇用失業対策の重要な柱として果たした役割は図りしれないものがあった。
新しい雇用保険法では、これまでの失業給付のほか、雇用構造の改善、労働者の能力の開発向上、その他労働福祉の増進を図るための諸事業を行うこととされた。これにより雇用保険制度は、単に失業を補償するだけでなく、雇用に関する総合的な機能を持つに至った。それからの日本の雇用対策の推進に、重要な役割を果たすこととなるわけである。
雇用促進事業団の設立
昭和30年以後の職業安定行政を語る場合、雇用促進事業団の業務に触れないではすまされない。この事業団の行っている諸種の業務は、国の雇用施策と表裏一体となり、職業安定行政の足りないところを補完する役割を果たしているからである。
石炭鉱業の合理化が進み、数々の離職者対策が講じられた。その対策実施のための重要な柱として、炭鉱離職者援護会が新設されたのは昭和34年であった。この援護会はその名が示すように、専ら離職者のための諸種の就職援護業務に当たった。そのいずれもが、職業安定機関の職業紹介による就職を前提としたものである。いいかえれば、炭鉱離職者の広域紹介を円滑に推進するための措置であった。
一方、昭和32年には、労働福祉事業団が設立された。当初この事業団は、労災保険及び失業保険の福祉施設の設置運営を行う機関とされていた。当時の労災保険の福祉施設の主なものは、労災病院である。失業保険の福祉施設には、総合職業補導所(後年の総合高等職業訓練校)のほか、簡易宿泊所、労働福祉館などがあった。
昭和36年に制定された雇用促進事業団法に基づき雇用促進事業団が設立された。炭鉱離職者援護会の業務の全部と、労働福祉事業団の失業保険福祉施設関係の業務は、雇用促進事業団に引き継がれた。それと同時に、駐留軍関係離職者や広域紹介による移転就職者の就職援護業務等も、新しく雇用促進事業団の業務とされた。
その後関係法令の制定、改正等により、雇用促進事業団の業務は多様化した。現在(昭和62年)行われている主なものを簡単に紹介すると次のとおりである。
- ○職業訓練大学校、総合高等職業訓練校、技能開発センター等職業訓練施設の設置運営、民間の職業訓練への援助
- ○移転就職者用宿舎の設置運営
- ○全国勤労青少年会館(サンプラザ)、勤労者職業福祉センターその他福祉施設の設置運営
- ○心身障害者職業センター、出稼労働者援護相談所等、相談のための施設の設置運営
- ○雇用職業総合研究所、職業訓練研究センター等による雇用職業に関する調査研究の実施
- ○建設雇用改善助成金の支給、雇用管理研修の開催等建設労働関係業務の実施
- ○住宅、福祉施設等の資金に係る雇用促進融資業務の実施
- ○炭鉱離職者、駐留軍関係離職者及び沖縄失業者に係る給付金、奨励金の支給等再就職促進のための援護業務の実施
- ○身体障害者及び一般求職者の雇用促進のための資金貸付、身元保証等の援護業務の実施
- ○雇用調整手当の支給、納付金の徴収等港湾労働者福祉業務の実施
- ○資金の貸付、助成金の支給等勤労者財産形成促進業務の実施
失業対策諸事業の実施
緊急失業対策法に基づいて始められ、長く失業対策の主力となってきた失業対策の諸事業の足跡に、触れておきたい。失業対策のポイントは、失業者に対し再就職までの生活の安定を図りつつ、速やかに就職の機会を与えることにある。終戦直後の失業対策の主な施策は、職業紹介、職業訓練、失業保険、公共事業への吸収などであった。これらの制度は、それなりに効果をあげた。しかし残念ながら、大量に発生する失業者や滞留する失業者の対策としては限界がある。そういった点からすれば、失業対策事業は失業情勢に応じて簡易に仕事の場を提供し、多数の失業者を吸収することができる。そこに、失業対策の中心的存在となった理由が見られる。
昭和24年に発足した失業対策事業は、大正14年に創設された失業救済事業とほとんど変わらない。就労者の適格要件や賃金を一般より低くする原則などは同じであった。いったん始めた制度は、就労者が固定化し、老齢化し、その終焉には相当の日時と対策を要することも、ほとんど同様である。
失業対策の諸事業についての沿革を、簡単に列記すると次のとおりである。
- 昭和24年度 一般失業対策事業創設、公共事業に失業者吸収率を設定。
- 25年度 失業対策事業への先着順紹介を輪番紹介に改める。
- 26年度 失業対策事業について、労力費、事務費に加えて資材費を国庫補助の対象とする。作業監督組織を確立し、応能賃金制を採用。継続紹介方式への切替え。
- 27年度 失業対策事業就労者に対し、賃金増給についての年末特別措置(3日分)が講じられる。以後夏季年末にはこの措置が続けられ、漸次増額される。
- 28年度 冷害、水害等災害に対する特別措置として失業対策事業、公共事業の拡大施行。
- 29年度 道路整備事業費による緊急就労対策事業の実施。炭鉱離職者緊急対策として鉱害復旧事業の繰上げ施行。失業対策事業就労者について、体力検定の実施、特別指導訓練現場の設定。
- 30年度 失業対策事業の中の経済性の高いものを特別失業対策事業として実施。
- 31年度 ガソリン税財源による道路事業、都市計画事業を臨時就労対策事業として実施。失業対策事業について、労力費、事務費の補助率(3分の2)を5分の4に引き上げる高率補助制度の開始。
- 33年度 失業対策事業のうち建設的な工事に高額な資材費を補助する特定工事制度発足。失業対策事業就労者紹介に計画紹介方式採用。
- 34年度 炭鉱離職者に一時的な就業の機会を与えるための炭鉱離職者緊急就労対策事業の創設。失業対策事業紹介適格者数はピークの36万3,000人となる。
- 36年度 日雇労働者転職促進訓練制度発足。
- 37年度 日雇労働者雇用奨励制度創設。失業対策事業就労希望者に対する健康診断の実施。
- 38年度 失業対策事業の施行に運営管理規程の制定。失業対策事業就労者の紹介に長期紹介(1カ月間の継続紹介)方式の実施。女子失業者のための家事サービス職業訓練制度開設。高齢失業者等就労事業の創設。
- 44年度 炭鉱離職者を臨時的に就労させる産炭地域開発就労事業の創設。
- 48年度 失業対策事業の紹介対象者への職場適応訓練制度発足。
職業補導事業の進展
その頃、職業安定行政上重要な役割を果たしていた職業補導事業についても、回顧しておく必要がある。「職業補導」は現在の「職業訓練」である。その職業補導という語は、昭和13年に改正された職業紹介法の中で使われ、昭和22年制定された職業安定法にその定義が明示された。「特別の知識技能を要する職業に就こうとする者に対し、その職業に就くことを容易にさせるために、必要な知識技能を授けること」がそれである。それは労働力の需給状況に応じて必要な職種について行い、無料とされた。実施する施設としては、当初は公共職業補導所のほか、作業訓練を行う共同作業所も含まれていた。
職業安定法制定当初の職業補導事業は、職業に就いていない者の就職に役立てる、いわば失業対策的な機能が重視されての運営であった。しかし経済の再建が進む中で、その主眼は経済の復興に寄与する方向に向けられていく。補導の職種も、従来の建設関連主体から近代的な機械関連へと重点が移る。6月未満が多かった訓練期間も6月ないし1年と延長される。補導目標を設定し、補導水準を全国的にそろえる措置がとられる。こうして職業補導の充実が着々と進められた。
昭和28年からは、失業保険の積立金の運用収入を財源として、総合職業補導所が登場する。近代的設備を整え地域の職業訓練の総合センター的な存在となり、その運営は都道府県に委託された。昭和29年には、夜間の職業補導が始められた。駐留軍や炭鉱の離職者対策のためである。昭和30年には、家事サービスや内職関係の公共職業補導所が開設された。婦人に対する職業補導を拡充するためであった。
昭和24年の職業安定法の一部改正で、「工場事業等の行う監督者の訓練に対する援助」という条文が新設された。この関係資料がGHQから提供された段階では、何をどうすることかわからず、関係者は当惑したそうである。それは、米国で戦時中に開発され、西欧各国に広まったTWIのことであった。産業の振興には監督者の訓練が必要で、その訓練の援助を職業安定行政としてとり上げることになったわけである。仕事の教え方、仕事の改善の仕方、人の扱い方を、それぞれ1日2時間、5日間で教えるもの。10時間講習ともいった。昭和24年に、国鉄の大井工場で第1回の講習会が開かれた。これがきっかけとなり、本格的なTWIの講習が全国に広がった。その後各種の監督者訓練が導入されるが、TWI方式はその主流をなしたものであった。
その頃労働基準行政関係では、技能習得を目途とした企業内での技能者養成が盛んになりつつあった。古い徒弟制度の改善も、その1つのねらいであった。技能労働力不足の情勢をふまえて、大企業はみずからの力で、中小企業は共同しての養成方式が広がっていった。こうして昭和29年には、技能者養成を行った事業場は2万8,000所を越え、養成工の数も6万5,000人を数えるほどの盛況であった。
昭和33年に職業訓練法が制定された。職業補導、監督者訓練、技能者養成等を集大成し、新しい時代の総合的な職業訓練制度を確立するのがねらいであった。その所管は職業安定局に新設された職業訓練部であった。昭和36年、同部は職業訓練局に昇格し、職業訓練行政は職業安定行政から分かれた。しかしその2つの行政は、雇用政策の2大支柱として共に発展の途を進んでいくのである。
職業紹介業務の拡充
職業安定行政の骨幹となるものは、何といっても職業紹介である。その職業紹介業務の内容や重点は、その時々の労働力の需給関係に大きく影響されることはいうまでもない。
労働力人口は、昭和25年は3,600万人であった。それが毎年80万人近く増え、10年後の昭和35年には4,400万人を数える。この間、労働市場は特色のある変化を見せた。昭和25年に起こった朝鮮動乱による特需景気で不況はようやく回復に向かい、求人は増加し始めた。しかし、それまで潜在化していた失業者、不況による離職者、引揚再開による海外からの帰還者などが、大量に求職者として公共職業安定所に殺到した。求職超過の厳しい情勢の時代である。昭和30年代に入ると経済は戦前の水準まで回復し、高度成長のスタートを切ることになった。製造業を中心に求人は増加し、新規学校卒業者や技能労働者の不足が表われ始める。このため、公共職業安定所の求人求職は次第に均衡に近づく傾向が見られた。
この間における職業紹介業務等の状況を概観してみよう。
- ○求人開拓 求職超過の情勢に対処して、職業安定機関は大々的な求人開拓活動を続けた。その活動は、当面厳しい就職難の引揚者、駐留軍関係離職者、炭鉱離職者、新規学校卒業者などを対象とするものであった。開拓した求人の数は、昭和27年度55万人、同30年度79万人、同35年度には110万人を数えた。
- ○引揚者の職業紹介 海外からの引揚者については、上陸地の舞鶴やそれぞれの定着地で特別な職業相談を行った。その上で熱心な就職あっ旋に努めたものである。昭和28年~同32年間の、求職申込引揚者1万3,576人、そのうち就職者は7,248人であった。
- ○新規学校卒業者の職業紹介 新規中学卒業者は、経済成長期には求人倍率は数倍を越え、確保難となる。しかし昭和30年頃までは求職者数が求人数を上回り、完全就職の難しい時代であった。職業安定機関は、その就職促進に懸命であった。求人開拓を行う一方、広域的な需給の調整を図るため、全国的に或いはブロック別に需給調整会議を開いたものである。その頃の新規中卒者の職業紹介状況は次のとおりであった。
卒業時 | 求職者数 (万人) | 求人数 (万人) | 就職者数 (万人) | 求人倍率 (倍) | 就職率 (%) |
昭和27年3月卒 | 42 | 39 | 26 | 0.9 | 61.4 |
30年3月卒 | 39 | 43 | 29 | 1.1 | 75.4 |
35年3月卒 | 49 | 95 | 42 | 1.9 | 85.0 |
新規高卒求職者は、昭和27年3月卒の20万人が、昭和35年3月卒の61万人に激増する。中学卒業者の進学率が高くなったためである。
義務教育卒業者の職業紹介は、戦前から職業安定機関が学校の協力を得て全面的に取り扱ってきた。しかし多くの新規高卒者については、職業安定法に基づき高等学校がみずから就職あっ旋を行っていた。新規高卒者も完全就職の困難な時代であった。
新規大学卒業者については、すべて大学自身で就職あっ旋が行われていた。昭和30年3月は大量の卒業者が見込まれ、そのままでは未就職者が多数出ることは必至であった。そこで職業安定機関としても主要な都道府県に学生就職対策本部を設置し、大学と連けいを密にして就職対策を講じた。昭和51年には、東京を始め主要な都市に学生職業センターが設置された。大学卒業者の就職を援助するため、求人情報その他雇用関係の情報を提供しようとするものである。
なお、新規中学卒業就職者の赴任には、一般的に地域ごとの集団輸送が行われた。全国的にその集団輸送を計画的に行う「計画輸送方式」がとられたのは、昭和39年からであった。
新規中学卒業者で就職する者の激減に伴い、新規学卒者の確保の重点は、高等学校卒業者に向けられるようになった。昭和46年3月卒業者を対象とする高校求人から、行政指導により公共職業安定所で求人受付を行うこととなった。全国的な求人の情勢を把握して、求人条件の適正化を図るとともに、要すれば需給調整を行うためであった。
- ○簡易職業紹介 昭和29年、主要都市33の公共職業安定所に、簡易紹介の部門が新設された。ここでパートタイムの求職者を登録して紹介が始められる。定職を得られない者の一時的な就職難対策として発足したものである。この策は時流に乗り、取扱いは増加した。しかし昭和32年頃からは、筆耕や家政婦のような短期間の求職者が増え、新しい傾向が表れ始めた。
- ○季節出稼者の職業紹介 従前の出稼者の紹介は、主として季節的に需要のある農林水産業等に、出稼の慣行のある労働者をあっ旋したものであった。しかし労働力不足の企業では、その不足を補うため、季節出稼者を雇い入れるところが多くなった。そのため季節出稼者の雇い入れの主力は、建設業や製造業に変わる。昭和35年の職業紹介による季節出稼者の就職者数は、17万7,000人であった。
- ○広域職業紹介 昭和34年頃から、経済の好況を反映して、労働力の需要が増加し、一般的に売手市場と変わった。しかし炭鉱離職者などを含めて、中高年齢者の就職難は解消されない。そこで昭和35年、職業安定法が改正され、労働大臣の定める広域職業紹介計画に基づき、広域紹介活動が活発に進められた。広域紹介は、このような就職の難しい者の就職確保に効果をあげたが、充足難に悩む企業の人集めにも大いに活用された。
- ○集団求人 中小企業は、いつの時代も求人難である。一般に労働条件等が低く求職者を集めにくいからである。売手市場となると求人の充足はますます深刻となる。その対策に集団求人方式がとられた。同一地域の商店街や同一業種の企業が、求人条件等を協定して受入れ体制をととのえ、共同して募集、採用を行うものである。これは特に新規学卒者の職業紹介に活用された。
- ○職業紹介組織の改変 職業紹介業務はこれまで業務内容別の業務分担が行われてきた。求人受理は求人係、求職受理は求職係といった具合である。これを職業別の業務分担に変えることになった。求人求職の受理から紹介、採否の確認までを、職種別の係で一貫して行うというものである。昭和33年から実施に移された。
- ○職業指導・職業適性検査 昭和30年に「職業の手引」が、その翌年には職業についてのカラースライドが出来上がった。いずれも学校生徒を対象とする職業知識の授与や選職指導などの職業指導用に作成されたものである。
昭和32年から口頭職業技能検査の研究がスタートした。この研究の結果、技能測定口頭試問が作成された。公共職業安定所の窓口で、技能関係の求職者に対し、面接担当の職員が口頭で質問しながらその求職者の技能程度を測定しようとするものであった。
昭和30年代の始めは、景気の高低につれて景気調整がその都度くりかえされていた。昭和35年には、経済の高度成長と所得倍増の政策をかかげて池田内閣が登場する。この年はいわゆる60年安保闘争の年で、日本全国が大揺れに揺れた年であった。戦後長く求職超過が続いていたのが、昭和40年代に入ると求人求職がほぼ均衡するようになった。こうした中で公共職業安定所の様相は大きく変化した。かつては失業者が職を求めて殺到した窓口には、よりよい転職口を探す労働者の姿が多く見られるようになった。その一方で求人窓口のほうも繁盛した。どうにかして人が欲しい求人者が目の色を変えて来訪したからである。企業経営の緊要性の第1位には、「資金の確保」を抜いて「労働力の獲得」があげられていた時代であった。必要な労働力が得られないため、「労務倒産」という言葉が生まれたのもその頃のことである。
このような情勢のなかで、昭和44年に求人公開方式が採用された。それまで求人求職は、利用者の秘密保持のため、特にあっ旋の難しいものを除き公開されることはなかった。新しい方式では、一般的に求人票の写しをそのまま展示した。求職者としては幅広く自由選択が出来、求人充足にもスピードが上がり、公共職業安定所の業務の簡素化にも役立つ方式であった。こうしたことから求人公開は急速に全国に広まり、求人情報提供手段の主流を占めるに至った。同じ年に、MRP方式によるリアルタイム職業紹介が阪神地区でスタートした。
職業紹介業務に関連して特記すべきことは、選職、指導、情報提供等についての各種の相談施設の開設である。昭和42年、中高年求職者の就職促進を図るため人材銀行が発足した。デラックスな設備で相談員を充実し、求職票の公開も行って業積を上げた。交通機関のターミナルにターミナル相談室が設けられたのも、この頃である。雇用促進事業団の施設として、季節移動労働者相談所、心身障害者職業センター、高年齢労働者職業福祉センター、雇用相談室などが開設された。いずれも対象者別に専門的な相談援助等を行い、職業安定業務について補完的な役割を果たそうとするものであった。
昭和47年、沖縄の本土復帰が実現した。この本土復帰により、沖縄の米軍に駐留規模の縮小があった。本土で駐留軍が撤退し、関係離職者が発生したのと変わらない状態が沖縄にも起こった。本土と同様に、職業紹介業務を中心とする離職者対策が講じられ、就職の促進が図られたことはいうまでもない。
オイルショックと職業安定行政
昭和46年、米国がドル防衛のために急拠措置した緊急経済対策は、成長一途をたどっていた日本の経済に冷水を浴びせた。これをドルショックといった。昭和48年秋の石油危機はオイルショックと呼ばれ、ドルショックを何倍も上回る強烈なショックとなった。これは、中東の産油国6ヵ国が、石油について大幅な値上げ、生産の削減及び輸出の制限を発表したことに端を発したものである。90%以上の原油を中東から輸入していた日本にとっては痛烈な衝撃であった。石油を原材料とする日常生活品は買いだめ売惜しみなどで市場から消え、各地でパニック現象が起こった。石油、電力の供給制限で、街からはネオンが消えた。テレビは深夜放送番組を中止し、ガソリンスタンドは日曜祝日を休業した。省エネルギーがやかましく叫ばれた。政府は総需要抑制策を徹底した。物資は不足し、物価は高騰し、国民の生活は急迫する。厳しい不況が訪れた。経営の行きづまりから、企業の雇用調整は広範囲にわたり、離職者が多発する。労働市場における労働力不足の状況は、一転して求職超過に傾く。公共職業安定所の活動も、求職者の就職確保に重点を注がねばならないときがまた巡ってきた。
これまで高度の経済成長にあわせてとられてきた積極的な雇用政策は、景気停滞の影響を大きく受けざるを得ない。昭和50年4月、失業保険法を全面改正した雇用保険法が施行された。雇用失業の動向と課題に即応できるよう、新しい雇用保険制度がスタートした。同法の雇用調整給付金制度は、その年の1月に繰り上げて実施された。これは、一時帰休による雇用調整を行う企業に適用された。オイルショック以来急速に悪化した失業情勢への歯止めの措置であった。
昭和51年、身体障害者雇用促進法の大改正が行われた。身体障害者の雇用率が義務づけられた。雇用率を達成できない事業所に対する雇用納付金制度が新設された。
中高年齢者等の雇用の促進に関する特別措置法が改正されたのも昭和51年であった。高年齢者の再就職の促進を目途として、高年齢者の雇用率制度が整備強化された。
また昭和51年には建設労働者雇用改善法が制定された。雇用改善計画の策定のほか、建設雇用の改善を進める諸施策が盛られている。
昭和52年、雇用保険法の一部を改正して、雇用安定資金の制度が設けられた。雇用保険事業の一環として今後の景気変動や産業構造の変化等に対処するために創設されたものである。
昭和52年には特定不況業種離職者臨時措置法が、翌53年には特定不況地域離職者臨時措置法が、相次いで制定された。特定の不況業種や不況地域の離職者対策のためであった。
昭和49年以降、日本は経済成長の停滞により厳しい不況に直面した。そして経済成長のマイナス面が社会問題化した。経済は高度成長から安定成長へ、政治は経済運営重点から国民福祉充実へ移行する転換期を迎えた。職業安定行政は、そうした情勢の変化に即応しながら、たくましくかつ限りない前進を続けていくことになる。