第5章 昭和時代(2)(戦後占領期)
占領直後の情勢と職業安定行政の課題
占領事情と社会情勢
昭和20年8月15日。
日本は太平洋戦争に敗れた。ポツダム宣言を受諾して、戦争は終わった。平和の訪れであり、再生への出発である。職業安定行政にも、新しい時代が訪れた。
その年の8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元師が、神奈川県の厚木飛行場にその第一歩を印した。この瞬間から連合国軍による日本占領が始まったわけである。これまで日本人が経験したことのない、外国の軍隊による日本本土の占領であった。
東京に設けられた連合国軍総司令部(GHQ、以下GHQという)からは、日本統治の重要な施策が次々と発せられた。政治、行政、社会、経済、文化、その他あらゆる面の改革を進めるためである。占領政策の基本的な目標は、日本の徹底的な非軍事化と民主化にあった。戦争責任の追求、要路の人々の公職追放、軍隊の解散、農地の改革、財閥の解体、教育の改革、労働組合の育成等々が推進された。GHQの意思は、命令、声明、指示、指令、書簡、勧告、示唆、助言、覚書などさまざまな形で示された。法令の制定改廃はもちろん重要な施策や通達は、プランの段階から英文に訳してGHQの承認を要した。OKが得られなければ、実施は出来ない。日本の国情にそわないことや、実現困難なことの強要もあった。たとえそれが好ましくない指示であり、それに抵抗したとしても、結局はGHQの意に従わざるを得ないのが実情であった。それは占領された敗戦国の当然の宿命であり、避けられない悲哀であった。
GHQの命令は超憲法的効力を有するものとされ、マッカーサー司令官が天皇の上に位していた時代である。日本政府の禁令が徹底しないときは、「連合国軍の命により」という言葉がよく使われた。それでも効果のない場合は、占領軍のMPがジープで出動し取り締まったものである。昭和22年の2・1ゼネストは、突入寸前に中止された。再建途上の日本に壊滅的な打撃を与えるとの理由で、GHQの厳しい干渉があったからである。昭和25年からの激しいレッドパージ(企業防衛のための共産主義者の追放)も、GHQの強い指導によるものであった。
連合国軍の占領体制としては、各地に強力な軍隊を駐留させた。その総兵力は、推定で40万人前後といわれた。また、都道府県ごとに軍政府が置かれ、行政の監視や指導が行われたものである。
かつて日本は、満州事変(昭和6年)を機に中国から満州国を独立させ、満州に在る日本軍によって軍政的な統治を行った。そのとき日本内地では実現困難な施策を、実験し実施したともいわれる。今度は、GHQ――その主体であった米国が、日本を実験台として民主化についての各種の実験を行っているのではないか、とささやかれたこともあった。
こうした占領行政は、講和条約が発効した昭和27年4月28日まで、約7年間続いた。それは、日本の再建と独立をめざしての、苦難に満ちた道程ともいえた。
戦時中は、国民勤労動員令などにより労務統制一色で、雇われる者にも雇う者にも全く自由のなかった時代であった。平和とともに、この行政にも新しい歩みが始まる。それにはまず、戦時労務統制法規の撤廃である。その上で新しい法体系や行政組織の整備が進められなければならない。そうした中で自由な職業紹介活動が復活する。このような行政の変革には、GHQの厳しい指示や指導や監視があったのは、いうまでもない。
平和が訪れても、世の中は混とんの極みであった。敗戦により国土は半分近くに減ってしまった。海外からの引揚者は約630万人、人口は急増する。国内の軍隊からの復員者だけでも、約350万人に上った。戦災による施設の壊滅や電力、資材の不足から、工場の生産は減退し、停滞する。こうしたことから失業者は増えるばかり。経済は混乱し、預金封鎖や新円切換えなどの措置も及ばず、インフレーションは加速度的に進む。食糧は払底して最低の配給量も確保出来ず、食糧危機は深刻化していった。
このような社会情勢の中で、敗戦による国民の精神的打撃は大きく、勤労意欲の面にまで甚大な影響を与えた。着る物を脱ぎ、その売り食いで生きていく「竹の子生活」、統制を無視して食料品や生活必需物資が売買される「闇市場」、都会から農村へ食糧の「買出し」などが常用語となっていた時代であった。住宅の焼失、家族の死亡、離散、食糧難、インフレーションの急進などで、多くの離職者は定職に就こうとする意欲を失っていた。闇物資のブローカーや運び人になるとか、浮浪者のような存在となって、多くの人々が潜在的な失業者に化したといわれたものである。
進駐軍労務の充足
職業紹介の面で、終戦直後から緊急課題となったのは、連合国軍の日本占領に伴って必要とする労働力の確保であった。その頃それを職業安定行政では、進駐軍労務の充足と称した。この労務の充足は、敗戦国日本に対するGHQの至上命令である。その完全充足は、日本政府ひいては職業安定機関の責任とされていた。
進駐軍労務の最初の要求は、昭和20年9月6日に米国大使館で就労する清掃人110人とエレベータ修理工2人であった。翌7日の庭手入人200人は充足が難しく、園芸学校等の生徒を動員して急場をしのいだものである。
連合国軍進駐当初の昭和20年9月中の労務供出要求は、全国で1日平均約3万5,000人であった。この要求は日を追って増加し、昭和22年には1日平均約20万人を数えるに至った。労務の要求は就労の前日に、レイバーオーダーとして公共職業安定所に伝えられるのが普通である。充足至難の場合は、当初はやむをえず労働者供給業者の手を借りたこともあった。さらに戦時中の労務動員的な供出方法も考えられた。しかしそのような方途は好ましからずとして、GHQから厳重に禁止された。それからは職業安定機関だけの力で充足せざるを得なくなったわけである。
離職者は巷にあふれていても、敗戦の虚脱、生活物資の欠亡、インフレーションの高進などで、勤労意欲は乏しい。こんな中での進駐軍労務の充足は、まことに困難を極めた。国民の愛国心に訴えたり、全く不足していた米、酒、煙草、衣料などの特別配給で応募を勧誘したりした。技能者の人集めには、関係団体などに協力を仰ぎ、時には深夜にまで及んで奔走したものである。
正月や雨天日の屋外作業は、一般に休むのが日本の慣習である。こんなときには充足率は当然のように低下する。そんな事情は一切斟酌しない進駐軍からは、強く責任を追及される。切羽詰まって東京では次のような手を打ち、急場をしのいだ。年末年始は、賃金2倍、米2合と煙草5本の特配。雨の日は、賃金30%増し、ビール半リットルと煙草5本の特配であった。煙草5本とかビール半リットルとかは、一般の感覚からすると、“そんな馬鹿な”と疑われるかもしれない。しかし酒や煙草が全く姿を消し、配給もとだえていた当時だけに、たとえ僅かな量でも貰える側には大きな喜びで、募集効果を高めたものであった。
労務の未充足が続くと、第一線の公共職業安定所長がその責任を問われて進駐軍のジープで連行され、そのまま留置されるような例も起こった。人が集まらない現場には、進駐軍の指示で、職業安定機関の職員が動員されて就労させられることもしばしばであった。
このように職業安定機関は、日夜進駐軍労務の充足に苦慮した。そこで充足体制を整えるため、昭和21年3月、日雇勤労署が新設された。その頃は、この日雇勤労署で賃金の支払いや特別加配用物資の配給まで担当したものである。昭和23年10月、都道府県に渉外労務管理事務所が設けられ、労務管理業務はそちらに移された。職業安定機関は労務の充足に専念することとなったわけである。
炭鉱労働者のあっ旋
炭鉱労働者のあっ旋も、進駐軍労務の確保とならんで当時の職業安定行政の最重点業務の一つであった。
石油資源の乏しい日本にとって、石炭は貴重なエネルギー源であった。戦時中の炭鉱には、人手不足を補うため、朝鮮半島からは一般の労働者が、中国からは捕虜が、たくさん送り込まれていた。その数は、終戦直前の労働者数(昭和20年7月、約40万人)の約33%にも上っていた。しかし終戦とともに彼らは帰国し、そのうえ動揺した日本人は離山して、その年の10月には炭鉱労働者は23万人に激減してしまった。出炭量も7月の271万トンが、10月は57万トンにまで落ちこんだ。石炭の不足で鉄道は動かず、発電はとまって工場は稼働できず、家庭でもガスは出ず、電灯も灯らない。産業の復興や国民の生活再建に、致命的な打撃を与えた。そこでその年の10月に、石炭生産緊急対策が閣議決定され、その中で労働者13万人の緊急確保が決められた。
至難な炭鉱労働者の人集めのために、多額の募集広報費が計上された。PRとしては、NHKニュース放送のつど求人のアナウンスが繰り返され、サウンドトラックは街頭をかけ巡った。新聞には新しい形式による求人広告がしばしば載せられた。当時の新聞は朝刊だけであり、しかも全国紙でも2頁しかない紙面であった。それに厚生省の名で二段抜きの広告を出したものである。また炭鉱労働者には、賃金80%の引上げ、1日5合の米や作業衣、地下足袋の特配を行った。
涙ぐましいほどの努力を続けて、5ヶ月間に14万8,000人の労働者を確保し、炭鉱に送った。職業安定機関は、こうしてその重責を見事に果たしたわけである。
繊維産業労働者のあっ旋
繊維産業の人集めも、終戦直後の職業安定行政の重要業務の一つであった。綿、絹などの繊維製品は、戦前の輸出のトップを占める花形であった。しかし戦時中は、設備機械がくず鉄として供出され、繊維工場の多くは休止や閉鎖を余儀なくされたものである。わずかに軍需物資の生産で息を続けていた程度であった。しかし戦後は産業振興のさきがけとなり、外賃獲得の最先陣として復活が期待された。例えば紡績業界では、アメリカからの原綿の輸入が始まると、工場の復元や拡張が企てられた。終戦時に269万錘にまで減っていた設備も、GHQから、400万錘にまで増加することが許可された。
設備の再建に伴い、労働力の確保が必要となる。しかし食糧事情のひっ迫で、人集めは容易ではない。これまで繊維産業の労務給源は、主に農山村の年少女子に依存してきた。しかしその頃、乏しくても何とか食べられる農山村地帯から、食糧の遅配欠配が続く都会の工場への就職が忌避されたのは、当然といえよう。その対策に繊維労働者には、労務者用加配米が措置された。
繊維産業全体の労働者の需要数は、昭和21年度だけでも35万9,000人に上った。かつての繊維産業の人集めは、もっぱら専門の募集人に依存していた。しかし民主化が強調される時代に、問題の多い募集人制度への依存は許されない。といって、職業安定機関の力だけでは、膨大な求人量の充足は至難である。そこで繊維労務処理委員会という組織が作られた。その実行委員に工場の労務担当者を任命し、職業安定機関に協力して、農山村の求職者の開拓や就職勧奨に当たらせた。職業安定機関と繊維工場の機能を合成した窮余の策であった。こうして、昭和21年度中は24万2,000人を集め、何とか急場をしのいだものである。この方式は当面の緊急充足を果たした後、職業安定法でいう「直接募集」に切り換えられた。繊維労務処理委員会の母体となっていた財団法人職業協会が、戦時中の活動を理由に、GHQから解散させられたこともあったからである。
終戦直後の進駐軍労務、炭鉱労務及び繊維労務のあっ旋業務は、まさに職業安定機関の大事業であった。重要産業労務の充足と称して、重点的に取り組んだものである。混とんとした社会情勢のなかで、関係職員は涙ぐましい努力を続けた。戦時中国家権力で強制的に職場配置を行ってきた者が、馴れない民主的な手法で職業紹介を行う。これは職員にとって大変な労苦であった。そして新しい時代に民主的なサービスに徹すべき職業安定行政にとって、重大な試金石でもあった。しかし厳しい試練を乗り切って、何とかそれをやりとげた。そしてその成果は、やれば出来るという自信となり、その後における職業紹介業務の近代化への大きな推進力となった。
後年、連合国軍の撤退、エネルギー革命、繊維産業の合理化等が訪れる。終戦直後大量の人集めに奔走した職業安定機関が、今度はその人達の離職対策に苦慮することになるわけである。