第3章 大正時代
公立職業紹介所の普及と米騒動
公立職業紹介所の普及
大正に入ってすぐの大きな出来事は、何といっても第1次世界大戦(大正3年―7年)である。大戦が終わると、日本にも深刻な不況が訪れた。戦争でふくれ上がった工場事業場からは、たくさんの離職者が出てくる。こうした情勢のなかで、明治の末に東京でスタートした公立職業紹介所が他の地域に普及するには、かなりの時間がかかった。
職業紹介所設置の必要性は分かっていても、貧しい時代の乏しい地方財政では、その設立にためらわざるを得なかったことであろう。
大正7年には、米騒動が起こった。この騒動が、公立職業紹介所の普及に一役買うことになった。
米騒動と職業紹介所
米騒動は、米の不足や値段の急騰などで、生活に苦しむ民衆が米を求めての暴動であった。こうした騒動は、これまで一部の地域で起こった例はあった。しかし大正7年のように全国的な規模のものは、あまり例がなかった。
世界大戦が起こってから、諸物価は高くなるばかりであった。米価も上がり続け、大正7年には、前年の1升(約1.5キロ)38銭が55銭にまで急上昇した。その原因は産米の不足や米の投機的買占めの激しさにあったようである。主食の高騰は、庶民の生活を脅かす。この年の7月、富山県の魚津港で、漁民の妻約300人が、県外へ送る米の積込みを拒否した。そして、町の資産家や役場に米の安売りを訴える行動を起こした。当時の漁民の日収は50銭程度であった。これが騒動の発端である。この動きは新聞に報道され、全国各地に飛火した。安売りの哀願から、値下げや寄付の強要、米屋や米穀(こく)取引所の取壊し、焼打ちにまでエスカレートしていった。農村、都市、炭鉱地帯に波及し、1道3府38県、369所、50日にわたる大騒動となった。その鎮圧には、警察だけでは手が足りず軍隊まで出動、兵員は延べ5万7,000人を数えた。約3週間戒厳令がしかれた。数万人が検挙され、起訴された者は7,708人に及び、死刑2人、無期懲役7人を含め、受刑者は約2,600人に上った。時の寺内内閣は、この騒動が動機となって総辞職した。
政府は米騒動の対策として、国費1,000万円を支出するほか、困窮者救済のために寄付金を集めた。大阪市は大正8年に10所の職業紹介所を増設したが、財源には、その救済募金の一部が充てられた。大正9年には東京で、豊原又男翁により東京府中央工業労働紹介所が創設された。この開設資金は、米騒動の際の募金の残りを、東京府社会事業協会から交付を受けて充当したものである。こうして米騒動は、窮迫した失業者などを就職あっ旋する機関として、職業紹介所の設置を促進した。そして揺籃(らん)期にあった公営の職業紹介事業の進展に貢献したわけである。
大正8年には、そうした気運に乗って、名古屋、京都、横浜、神戸、横須賀、和歌山、鹿児島等にも、続々と市立の職業紹介所が誕生した。