職業安定行政史

第1章 江戸時代

江戸時代の雇用等

奉公の制度

ここで、江戸時代の雇用がどのように行われていたかを見てみよう。
 その頃、雇われて働くことを“奉公する”といった。元来奉公とは、封建社会の武士の間で、家来が主君に尽くす勤務の関係をいったものである。それが江戸時代に入って、庶民の間でも雇用されることを奉公といい、奉公する人を奉公人と呼ぶようになった。
 当時の奉公の制度を、奉公の期間で分けてみると、次のようになる。
 終身奉公――生涯を通じて奉公する。一般に武家などの世襲の奉公に多い。
 年季奉公――1年を越える年数を決めての奉公。徒弟奉公はその例である。
 出替(でかわり)奉公――1年または半年の期間を決めての奉公。前者を一年季、後者を半季の奉公といい、期限がきて奉公人が入れ替わるのを「出替り」という。
 日傭取り――1日や短期間の就労。現在の日雇労働者といったところである。

江戸時代には、国民の身分は士農工商の四民に分けられ、その四民ごとに奉公の制度があった。
 武家の奉公人は、士分とそれ以下の軽輩に分かれる。上級の者は一般に終身の奉公で、旗本や譜代の家臣などがこれに当たる。軽輩は、例えば徒士、足軽、槍持、六尺、草履取り、中間などで、「軽(かろ)き奉公人」と呼ばれた。軽輩の者は、当初は終身や年季の奉公が主であったが、次第に出替奉公に変わっていった。
 農家の奉公人は、村方奉公人といい、さまざまな奉公があった。雇用といえる奉公は、一年季や臨時雇いであった。
 職人には年季奉公が多く、一人前になるまでの徒弟奉公が主流であった。
 商家では、丁稚(でつち)、手代、支配人などの職制があり、若い人の多くは年季奉公である。家事や雑用に使われる者は、主として出替奉公であった。
 職人や商家の奉公人を町方奉公人といった。
 士農工商の区分は厳しく、身分の交流は禁じられていた。それまで武士は有事の際には戦いに出たが、平時には上級の者を除いて農事に従事したものである。兵農が分離されて、武士は失業しても武士としての身分は変わらず、農民は生涯を農民として送ったわけである。しかし、一部に例外もあった。例えば百姓や町人が武家屋敷に奉公すると、武士に準じた扱いを受け、帯刀も許されることがあった。

奉公の規制と出替り

徳川幕府は奉公について、いろいろな規制を加えた。一年季の奉公の禁止や出替り日の制定はその一例である。
 一年季の奉公の禁止は、江戸時代の初期の措置であるが、その理由ははっきりしない。1年限りの雇入れでは軍役に不向きだとか、出替者では奉公が無責任になり、主家への忠義心が薄れるとかの説がある。この禁令は、その後出替奉公が認められて解除された。
 出替り日の制定は、奉公人を一斉に就職させ、奉公もしないで無為に過ごす者を江戸から一掃しようとの、治安対策上のねらいが強かった。出替り日は、一年季の奉公は承応2年(1653年)に2月15日と定まり、以後2、3回の改変で3月5日に落ち着き幕末まで続いた。半季の出替り日は、当初3月5日と9月5日とされたのが、何回も改められている。
 出替りについては庶民の関心が深く、数多く川柳に取り上げられている。
“五日より五日までなり下女の恋”

3月5日から翌年の3月5日までしか出来ない下女の恋のはかなさ。

“出替りは内儀のくせを云い送り”

やめていく下女が後任者へ口うるさいおかみさんの癖を申し送っている。

“出替りの涙にしてはこぼしすぎ”

やめていく下女は、あるいは旦那とでも仲がよすぎたのではないだろうか。

“出替りの乳母は寝顔にいとまごい”

1年間育ててきた坊やへの愛着は深く、なかなか別れ難い。

“ふしだらけの薪(たきぎ)を残して出て代り”

割りにくい薪を残して下男は出て行く。主家への不満もあったらしい。

“出替りに日和(ひより)のよいのも恥のうち”

下女が日和(ごきげん)よく去って行くようでは、待遇が悪かったためと受け取られ、世間体がよくない。

奉公人の労働条件

武家や商家などの奉公人は、どんな条件で働いていたのであろうか。給金は時代によって変わるが、江戸中期の頃で、男は年3両、女で1両から2両ぐらいだったようである。日雇者も職種にもよるが、日当は大体150文から200文程度。その頃の賃金決定には、技能や能力もさることながら、容貌、体格などが重視されたようである。女の奉公人は顔かたちがよいと年3両、まずければ1両といったぐあい。男でも武家屋敷の六尺(かごかき)は、体格優先である。例えば背が高くがっちりしておれば、日当は200文。貧弱なのは170文にも下がる。主人のお供は、「いやしからぬ男ぶり」であれば優遇された。技能の習得が主眼の徒弟奉公では、給金は払わないのが普通であった。
 奉公人には、原則として衣食住が給される。衣はお仕着せといい、1年に夏冬2回の支給で、住は主人の家に同居である。しかし出替奉公人は衣服は自前であったし、商家の番頭のように通勤者もいた。
 奉公人の休日は、正月と7月の2回で、各3日間であった。それを藪(やぶ)入りという。自分の家へ帰ったり、帰らなくても自由に遊べる休日であった。そこでこんな川柳が生まれる。
“色白なはず年に2度日に当り”
“年には二度土を踏ませる呉服店”
 年季奉公が終わると、商家や職人の奉公人は「お礼奉公」といって、なお数年間無償で奉公するのが例であった。お礼奉公を済ましてから“のれん分け”をしてもらい、独立して商売などを始める。このとき奉公先から、開業資金の一部が出されたものである。

年季奉公人などの雇入れでは、主家の本国や出身地が重要な役割を果たしていた。例えば武家屋敷で奉公人が必要なときは、その藩の本国で年貢(ねんぐ)米が納められない農民を江戸屋敷につれてきた。そこで一定期間働かせて、未納の年貢を弁済させていた例がかなり見られる。そのほか、その藩の御用商人に本国の農民をあっ旋させたり、同藩出入りの人宿から江戸者の世話をさせたりしている。商家などの長期の奉公人も、主人の出身地から呼び寄せるのが堅実な人集め策であった。本国や出身地からの奉公人は、身元もよくわかり、江戸者よりも給金が安くてすむメリットがあったようである。

出稼人と奉公人の出身地

江戸で雇われて働く者には、年季などの一般奉公人のほかに、出稼人があった。主として冬場の農閑期に江戸へ出てくる人達である。天保14年(1843年)の調べでは、総数3万4,000人、うち男は2万5,000人であった。出身地は、江戸周辺の武蔵(東京、埼玉)、下総(千葉、茨城)、相模(神奈川)が主である。信濃(長野)や越後(新潟)など雪の深い地方からも、多くの人が出稼ぎに来ていた。
 出稼期は信濃人の場合、10月、11月から、2月、3月頃までが普通だったようである。川柳にこんなのがある。
“雪降れば椋(むく)鳥江戸へ喰いに出る”

江戸へ集団で出稼ぎに来る人たちを椋鳥に見立てた諷刺である。

“食い抜いて来ようと信濃国を立ち”

“人並みに食えば信濃は安いもの”

“食うが大きいと信濃を百ねぎり”

信濃とは信濃人のこと。信濃の出稼人は、江戸では大めし食らいとの評判であった。ふだんから粗食の彼らには江戸の飯はことのほかおいしい。それに出稼人の職場は重労働。これでは信濃人ならずとも大めし食らいになる。もし食べる量が人並みならば、安上がりの計算となるわけである。渋い奉公先では、食いすぎる者の日当をねぎったりするところもあらわれる。

出稼人の出入りが激しくなると、徳川幕府は、中期頃から出稼ぎの規制にのり出した。安永6年(1777年)には、村役人に届けないと出稼ぎができない出稼免許の制がしかれた。その後その規制はさらに厳しくなる。天保14年(1843年)には、江戸への出稼ぎには、出身地の村役人連印の願書にもとづく領主の出稼許可状が必要となった。江戸に着いたら、出稼許可状を町奉行所へ提出しなければならない。こうした手続きをふまないと、江戸では無宿(むしゆく)者として扱われ、見つかれば佐渡の金山へ水替(みずかえ)人足に送られた。
 出稼人の就職については、江戸の親せきや知人を頼るか、人宿の世話を受けることになる。求職者を確保したい人宿では、使用人を品川や千住、板橋など街道筋の要所に張り込ませた。そこで江戸へ入る出稼人を見つけると、甘言で誘って人宿につれていくといったことも多かったようである。

その頃、江戸でよくいわれた言葉に、次のようなものがある。
“越後米つき、相模下女”
“越後の米つき、能登の三助”
“越後の米つき、越前の番太”
 江戸へ出て働く人の出身地と職業との関係を誇張しての言葉である。米つきは杵(きね)をかついで市中を回り、注文に応じて米をついて報酬を得た。米つきは何も越後人に限ったわけではないが、越後出身者がその代表格といわれたものである。同じように、下女は相模、浴場で働く三助は能登、木戸の番屋につとめる番人は越前といったような相場も出来ていた。江戸でありついた職場で懸命に働く。同郷の先輩を頼ってきた後輩も、同じ職場で同じように働く。こんなことが重なって、そんな言い伝えが生まれたものであろう。ちなみに“近江商人、伊勢商人”とか、“近江泥棒、伊勢乞食(こじき)”というのがある。江戸で大をなした商人に、近江や伊勢の出身者が多い。彼らは利にさとくて泥棒と同じだ、つつましい生活で乞食のようだ、と江戸っ子がやっかみ半分に嘲笑するのである。

人市

人宿などのない農村地方では、職さがし、人さがしの形態の一つとして、「人市(ひといち)」が生まれた。今でいう青空労働市場である。「市」は、自分の生産した農産物等に余剰が出たとき、それを他の人の物資と交換するために、古代の頃から発生した。場所は、人の集まりやすい社寺や交通の要地であった。それは取引の都合もあり、次第に定期的に開かれるようになった。「人市」は、交換するものが物資から労働力に変わるだけで、「市」と似たような段階を経て生まれた。この青空労働市場では、求人者と求職者とが直接に相対し、話し合って雇用関係を結ぶのが普通であった。この人市が、その地域の人たちの職業の確保に大きく貢献したであろうことは想像に難くない。昭和の時代にまで続いた人市に、滝部(たきべ)の奉公市、田島の女中市、横手の若勢市などがある。

滝部の奉公市は、市守(いちもり)神社(山口県豊北町)の周辺で行われた。天和年間(1682年頃)に、この地方で大規模な開墾事業が起こり、物資や労働力の調達に苦労があった。大内氏の旧臣鷲頭自見は、月3回の市日を設け、その労働力の需給調整を図ったという。宝永3年(1706年)彼が死去すると、この地方の人はその徳を慕い、市を守る神として祭ったのが市守神社である。
 滝部で市が立ったのは、毎月1日、10日、20日で、人市は3月から6月、8月から10月ごろの間に開かれていた。求人求職双方が相手を物色して話し合い、話がまとまると神前で「奉公約束の証」をとりかわす。そのうえで奉公人は、雇主に伴われそのまますぐに赴任する。職種は、作男や作女の農業労働者、女中、下男下女、子守など。就労期間は長くて1年、短いのは田植、麦刈などの1月未満のものもあった。賃金としては、江戸時代には米に衣類を添えたようで、その米を恩米といった。この奉公市は昭和の初めまで続いた。
 田島の女中市は、宗像(むなかた)大社(福岡県宗像市)の秋の大祭の日に開かれた。この日は農具の市が立つが、いつの頃からか、玄海灘にある大島や近辺の漁村の女子を対象に人市が立つ風習が生まれたものである。滝部の奉公市との違いは、秋の大祭日にしか開かれない、職種は女中が主である、「奉公約束の証」のとりかわしはない、などである。出労期間は半年以内が多く、毎年100人前後の就職が決まっていた。この女中市は、昭和26年頃まで続いた。(注)福岡県の職業安定機関が、あらかじめ女中関係の求人を集め、当日、宗像大社の境内で現地職業相談を行い、あっ旋に努めたため、女中市の風習は途絶えた。
 若勢(わかせ)市は、横手(秋田県)城外の朝市場で、年末や秋の彼岸頃に行われていた人市である。職種は主に若勢(若者)の農夫や女中で、就労期間は一季や半季の1年未満の労働者が対象であった。年末などには、1日20人以上の契約が出来たそうである。話し合いがまとまると、「手打ち酒」をくみかわした。
 お江戸のまん中でも人市が開かれた。12月28日の夜、日本橋の四日市町(江戸橋の近く)に立った才蔵市がそれである。江戸の正月には、三河万歳がおもしろおかしく市中を回った。当初は三河(愛知県)から、太夫、才蔵のコンビで江戸に出てきたらしい。しかし経費がかさむため、太夫ひとりが出てきて、才蔵は江戸で見つける慣習になったようである。
 その日、江戸近郷から集まった応募者を太夫がテストして契約を結ぶ。才蔵の賃金は芸のうまさで決まり、毎年100人前後が雇われた。
“三河から江戸橋へ来て供を買い”
“塩引の中で鼓の市も立ち”

この一帯では、ふだんから野菜や乾魚の市が立ち、歳末には正月用品として塩引の鮭なども売られていたのである。

この才蔵市は、仁太夫という非人頭(ひにんがしら)がとりしきり、賃金の1割をあっ旋料として徴収した。雇用期間中に才蔵に不都合なことがあれば、仁太夫がその損害を賠償したという。

日傭座

徳川幕府は寛文5年(1665年)、日傭座を創設した。江戸の日雇者は年を追って増え、1770年頃には1万人を超えていた。江戸に定住していても、あるいは他所から出てきても、働き口がなければ日雇人足でもして食わねばならない。しかし、いつの世でも日雇者は就労の機会が一定せず、生活は不安定である。ともすると、浮浪者、無宿人、無頼の徒になりかねない。そんな者を、将軍家のお膝もとで野放しにするのは禁物である。日傭座は、江戸の治安対策上彼らを掌握し取り締まるために生まれたものであった。
 各町々で、名主のもとに日傭人別帳を整えさせる。それを基にして、日傭座は日雇者から月24文の札役銭を集め、日傭札を交付する。日傭札がなければ、江戸では日雇者として働けない。初めは対象を鳶、てこの者などに限っていたが、やがて全日雇者に広げて適用した。
 当時日雇者に規定以上の賃金を払うことは禁じられ、その額の決定や監督も日傭座の仕事であった。江戸っ子が江戸の華と自慢したほど江戸には火事が多く、明暦の振袖火事や八百屋お七の火事などはその最たるものであった。罹災後の復興には日雇者の需要も多く、賃金が高騰する。そんなとき日傭座は、日雇賃金を規定額まで引き下げるよう指示し、取り締まったものである。
 幕府は、日傭座の仕事を請け負わせるため2人の町人を総元締に選び、札役銭はその収入にした。日傭座は町奉行所の指揮下にあって、株的な性格を持ちながら、行政機関の役割を果たしていたわけである。
 日傭座はいろいろな変遷を経て、寛政9年(1797年)に廃止された。組織が弱いため、増える一方の日雇者の取締りが難しい。札役銭の徴収に弊害が多い。などがその主な理由であった。なお、日雇者の就労あっ旋は、日傭座ではなく、人宿の仕事であった。

(江戸時代の記述については、牧英正先生の「雇用の歴史」、南和男先生の「江戸の社会構造」、「江戸っ子の世界」、石井良助先生の「江戸時代漫筆」、西山松之助、小木新造両先生の「江戸三百年③」などを、引用または参考にさせていただきました)

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