職業安定行政史

第6章 昭和時代(3)(独立以後)

労働行政の歩み

労政行政

戦後急速に結成が進んだ労働組合の活動は、当時の経済情勢の混迷の中で先鋭化していった。独立以後のめぼしい労働関係の事件や闘争をふりかえってみよう。

  • 流血メーデー事件 昭和27年、東京の中央メーデー参加者の一部が皇居前広場に殺到、警官隊と乱闘して多数の死傷者発生。
  • 長期秋季賃金闘争 和27年、電産、炭労が中心となって長期スト実施。
  • 勤評反対闘争 昭和31年、愛媛県で教職員の成績評価を行うための勤務評定が発端となり、日教組による全国規模の反対闘争に拡大。
  • 大量処分反対闘争 和32年、春闘の実力行使で大量の処分を受けた公労協が、その反対闘争を展開。
  • ILO87号条約批准促進闘争 昭和33年、公共企業体労働者の諸権利の制限撤廃をねらって、労働4団体が中心となりこの闘争を開始。
  • 警職法反対闘争 昭和35年、警察官職務執行法の一部を改正する法律案の国会上程に労働者団体等が反対し、戦後最大の政治ストとなる。
 昭和30年前半の注目すべき労働運動としては、(1)春闘方式のスタート、(2)日米安全保障条約改定反対のスト、(3)三井三池スト、があげられる。春闘方式とは、全国的な産業別の賃上げ闘争を、春季にスケジュールに基づいて行うもの。昭和30年に総評の主導で始まり、年中行事化した。日米安全保障条約改定反対のストは、昭和35年がピークであった。この条約改定を行う国会審議に際して行った同年の6・15ストは、参加者72万人に上る激しいものであった。三井三池ストは、昭和34年、三井鉱山三池鉱業所で1,200人の指名解雇をめぐって発生した。会社はロックアウト、労組は無期限ストで対抗し、総資本総労働の対決とまでいわれた激しい長期ストであった。
 昭和30年代後半以降は、政治の安定、経済の成長を背景に、運動の重点は政治的なものから経済的なものへ移っていった。その要求は、賃上げに加え、週休2日制、労働時間短縮、定年延長などと多様化する。昭和39年、同盟の発足で、労働界は総評と同盟の2大勢力対峠の時代を迎えた。昭和48年のオイルショックを境に減速経済時代に入り、労組の要求闘争も、国民生活に直結する公害、物価、雇用、減税、社会保障などの政策が重要視されるようになった。

このような労働情勢に対応して、各種の法律が誕生した。昭和28年に、いわゆるスト規制法が制定された。正しくは、「電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律」である。電産や炭労の争議が契機となり、第三者に異常な損害を与える争議行為は許されるべきではないとの見地からの立法であった。同年、労働金庫法が制定された。労働者団体が行う福利共済活動のために金融の円滑を図ろうとするものであった。昭和33年、日本労働協会法が施行され、労働問題について研究、資料の整備、啓もうを行う団体として、日本労働協会が発足した。昭和34年には、中小企業退職金共済法が施行された。中小企業退職金共済事業団が設立され、中小企業の従業員を対象とする退職金共済制度が創設された。

連合国軍の占領期には、労政行政の運営は、労働組合の結成促進と労働教育の徹底に重点が置かれた。その労働教育は労働者の啓もうが中心であったが、独立後は国民全般に対象を広げた。労働問題について公正な国民世論を涵養しようとするねらいからである。そのため労働学校や労働大学の講座が各地で開かれ、週刊紙なども刊行されるようになった。昭和33年の日本労働協会の設立は、政府や地方公共団体が労働教育を直接行うのが不適当な場合もあることを考えての対策であった。
 昭和32年に労働事務次官名で、「団結権、団体交渉その他の団体行動権に関する労働教育行政の指針」が通達された。労使関係の法制について、労働省の基本的見解を示したものである。その後は、この指針に沿って労働教育が進められることになった。

労働基準行政

労働基準行政では、労働者の実質的な保護を目的とした行政運営が重点的に進められた。
 産業の復興を反映して、賃金を中心とした労働条件は一段と改善される。しかし、中小企業では未だしであった。そこで、中小企業の労働者のための福祉施策の展開が主要な課題となった。昭和34年、多年の懸案であった最低賃金法が制定された。その年に実施された中小企業退職金共済制度も、福祉施策の一環であった。
 安全衛生面でも、問題の多い中小企業を重点対象としつつ各種の施策が講じられた。昭和34年から35年にかけて、じん肺法など安全衛生関係法令が、次々と制定された。昭和34年には、初めて産業災害防止総合計画が策定された。この計画は労働災害の半減を目指したものである。労災病院など労働者災害補償保険の保険施設の運営は、昭和32年に設立された労働福祉事業団が当たることになった。また、中小企業の労務管理改善の一環として、商店街等における週休制やいっせい閉店制が推進された。労働条件の改善が容易でないサービス業での休日の確保と長時間労働の排除を図り、商店労働の近代化をねらったものである。
 技術革新による労働環境や労働態様の変化は、労働災害を大規模化し、新しい職業病を発生させた。総合的な労働災害防止対策を推進するため、昭和39年に労働災害防止団体法が制定され、中央及び業種別の災防団体が設立された。昭和43年には、労働災害防止基本計画が策定され、その後、年度ごとに実施計画が立てられる。同じ年に最低賃金法が改正され、従来の業者間協定方式に代えて、審議会方式による最低賃金制度が確立した。昭和45年には家内労働法が成立した。

経済の高度成長で生まれたひずみから経済成長第一主義が反省され、人間尊重、人間性回復が叫ばれるようになった。そのため労働基準行政は、豊かな勤労者生活を目指し、労働福祉の増進、労働災害の防止を図る施策が重視されることになった。昭和46年に勤労者財産形成促進法が、同47年に労働安全衛生法が、同50年に作業環境測定法が制定された。勤労者財産形成制度は、週休2日制の促進と相まって、その後の労働福祉施策の大きな柱として推進されることになる。

職業訓練行政

職業訓練行政は、この時期に大きく発展した。昭和30年代を迎えると、産業界は技術革新の時代に入り、近代的な技能労働者の確保が急務となる。昭和33年に職業訓練法が制定され、総合的な職業訓練制度が発足する。昭和35年、初の技能検定が実施され、同じ年に職業訓練長期基本計画が定められた。翌36年には労働省に職業訓練局の新設を見た。
 昭和37年、スペインでの第11回国際職業訓練競技大会に日本は初参加して好成績をあげた。昭和40年には職業訓練大学校が開設された。同41年、雇用対策法が制定され、職業訓練の雇用政策に占める重要な地位が明確にされた。昭和43年には、現代の名工を卓越した技能者として表彰する制度がスタートする。同年には日米間に、翌44年には日独間に、それぞれ青年技能労働者を交流する計画が実現した。
 昭和44年には、職業訓練法が大改正された。技能労働者の著しい不足や技術革新の進行に対処し、職業訓練制度の刷新強化を企図したものである。公共職業訓練施設は職業訓練校と改称された。翌45年には、アジア地域で初の国際職業訓練競技大会が、日本で開催された。昭和46年、職業訓練基本計画が策定された。その年には、「技能の日」と「技能尊重月間」が定められた。
 こうして職業訓練行政は生涯訓練の体制を進めつつ、労働者の豊かな生活を目指して、さらに前進を続けていくことになる。

婦人少年行政、国際労働行政

婦人少年行政としては、昭和28年には、働く婦人の家が発足する。昭和33年には勤労青少年ホームが、同35年には家事サービス公共職業補導所と内職公共職業補導所が新設された。
 経済の著しい発展により労働力の需要が増えて、婦人の職場進出が急増し、かつ若年労働者の確保難の時代を迎えた。働く婦人や年少者についての対策が必要となる。昭和45年には勤労青少年福祉法が制定された。これは、勤労青少年の福祉増進の措置を総合的計画的に推進することを目的としたものである。本法に基づく初の勤労青少年の日は、その年の7月18日であった。昭和47年には勤労婦人福祉法が施行された。勤労婦人について職業生活と家庭生活の調和を図り、能力の有効発揮や福祉の増進を目的とする立法であった。
 昭和50年は、国際連合が定めた国際婦人年に当たり、平等、発展、平和のテーマにそって活発な活動が行われた。

昭和26年にILOへ復帰した日本は、同29年常任理事国に選ばれた。レイバーアタッシェ制度が発足し、始めてロンドンに置かれたのは、昭和27年である。その後各国に配置され、現在は13カ国に上っている。昭和31年には国連への加盟が実現し、遂に日本は国際社会へ完全に復帰したわけである。国際労働の世界でも日本の占める比重は次第に増大していく。昭和36年には国際社会保障協会に、同39年には経済協力開発機構に加盟した。海外技術協力も職業訓練を中心として活発に行われるなど、労働外交は積極的に展開されていった。

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