第2章 明治時代
労働者募集人制度
募集人制度の発生
明治に入って、人と職業との結びつきについて新しく生まれた制度に、労働者の募集人制度がある。
明治政府の国策は、文明開化であり、富国強兵であり、あらゆる面で外国に追いつき追い越すことであった。明治維新以来、欧米からの輸入が激増していた。わけても綿製品の輸入は、輸入総額の5割を超えるほどであった。貿易収支の改善を図るには、綿製品対策が急がれた。政府が繊維産業の育成、振興に力を注いだのは、そんな事情があったからである。それによって綿製品の輸入の抑制や、さらには逆に綿製品の輸出を進めようとするねらいであった。このねらいは成功した。日本はやがて綿糸、綿織物、生糸、絹織物などの主要生産国となり、繊維製品はその後長く我が国の輸出の上位を占めるようになった。
各地に近代的な繊維工場の建設が進むと、それに応じて労働者の確保が必要になる。しかし、これまで都会中心に発達してきた営利紹介業者は、大量の工場労働者をあっ旋する能力が乏しい。また繊維工場自身が、縁故や従業員を使っての人集めには限界がある。そこで主な募集地に、募集勧誘に当たる者を置く制度が考え出された。その土地の顔ききなどに、労働者を1人集めればいくらと報酬を決めて委託するものである。こうして、農山漁村を回り募集活動に専念する募集人制度が生まれた。
日本で初めて紡績工場が設けられたのは、慶応2年(1866年)である。薩摩の藩主島津斉彬公の命で、鹿児島郊外(現在鹿児島市)の磯の浜に、英国から輸入した紡機3,000錘(すい)が据え付けられた。工員として働く者は武家の子女に限られ、百姓や町人はなりたくてもなれなかった。その頃としては、全く珍しい自動式の機械を操作する工員達は尊敬され、うらやましがられたという。働く者は限られ、しかもプライドをもっていた。こんな頃の工員の募集については、格別に問題の起こるはずはない。
繭(まゆ)から生糸を作る製糸は、日本では古くから家内工業的な生産であった。明治5年、群馬県の富岡に政府直営の近代的な製糸工場が設けられた。その設置と運営の指導には、フランスから技術者を招き、動力機械で生産した。この工場は、製糸技術改善のための模範工場であった。ここでは、全国から良家の娘を伝習工として集める。熟練した者は、各地の民間製糸工場に、技術指導者として送られた。
募集を要する人数が少なければ、募集人の活動も、それほど無理なく行われるはずである。しかし、その数が多くなったり、他社の募集と競合したり、さらには労働条件や労働環境が悪いと、所要人員の確保はうまくいかない。おまけに雇用期間は1年ないし3年程度で、しかも中途退職者が出るため、繰り返しての募集が必要となる。さまざまな勧誘策をめぐらし、貧困や無知につけこんで、手段を選ばぬ活動が広がる。こうして募集人制度の弊害は著しくなっていった。
募集人制度は、何も繊維産業に限ったものではない。他人に頼んで人集めをしようとするとき、このような制度が生まれるわけである。有名な文学作品にも、募集人や周旋人の話が出てくる。夏目漱石の「坑夫」は、募集人にうまく丸めこまれ、銅山に働く青年の話である。小林多喜二の「蟹工船」には、周旋人にだまされて北洋で働く漁夫が登場する。佐藤紅緑の「紅顔美談」は、監獄部屋と恐れられる北海道の建設工事に、周旋人から売りとばされた少年をめぐる話である。
募集人の主な仕事は、もちろん労働者を勧誘し、必要な人員を確保することであった。そのほかに、工場から引率者が来ないとき、代わって工場へ引率する仕事もあった。募集人の懐(ふところ)に入る周旋料は、時と所によって違いがある。当初の頃は、女工1人につき1円ぐらいだったようであるが、募集競争が特に激しい時には、20円ぐらいにもなったといわれる。募集人が勧誘のために使う諸経費は、あらかじめ会社から預っておくのが普通であった。
募集人制度の弊害
工場の数が少なく、求人数もそれほど多くない頃は、募集人の弊害はあまり目立たない。それに農山村を出て働きたい者も多く、人集めに難しさは少なかったようである。しかし、工場が増え求人が急増すると、募集競争は激しくなる。どこかでオギャーと赤ん坊が生まれると、募集人が早速お祝いにかけつける。女の子だったら、その場ですぐ、小学校卒業後は当社へ就職を、と約束をとりつけるという話が残っている。工場や寄宿舎での苛酷な管理の実情が、帰郷した者から伝わると、応募者は減り募集難に拍車がかかる。そこで、うそをならべ甘言で釣る誇大宣伝、前借金による人買い、あるいは誘拐同様な手段による人集めが行われることとなる。なかには恋愛をしかけ、肉体関係まで結んで員数を確保するような者まで現れた。金をかけ苦労して集めた女工に、すぐ退職されたり、他の会社に移られたりしては計算があわない。寄宿舎に入れての管理が厳しくなる。週1回の外出も容易でなく、許されても監視人が付き添うといった有り様だった。給料日後の数日は、逃げ出す者が多いということで、寄宿舎周辺に見張り人が立ち、終夜の監視が続いたそうである。手紙類については点検もあり、時にはその没収も行われたという。家族の病気の看護ぐらいでは、帰郷は認められない。肉親死亡の電報が入り、それが確認されてようやく帰郷が出来るといった具合であった。自由な休暇はもちろん、任意退職もままならない有り様であった。引き止め策として、雇用期間を定める年季制度がとられる。給料の大半を父兄へ送る強制送金制度が生まれる。女工が極端に不足してくると、その引き抜き争奪が激しくなった。特に新設の工場では、新人を集めて教育するよりも、他の会社の熟練工を引き抜くほうが手っとり早い。それには、募集人や営利紹介業者も一役買った。なかには、女工と募集人とがグルになって、転々と工場を渡り歩く例も見られたという。
うちが貧乏で十二の時に
売られて来ましたこの会社
こんな会社へ来るのじゃないが
知らぬ募集人にだまされて
篭の鳥より監獄よりも
寄宿舎住まいはなおつらい
ここを抜け出す翼がほしや
せめて向うの丘までも
よその会社は仏か神か
ここの会社は鬼か蛇か
寄宿舎流れ工場が焼けて
門番コレラで死ねばよい
これは、繊維工場でよく歌われた女工小唄である。昼夜の労働は激しく、寄宿舎でもあまり自由は与えられない。故郷で募集人から聞いたのとは違うつらい処遇や環境である。そうした彼女達が、寄宿舎の一隅で望郷の思い切なく、ささやかな反抗をこめて涙ながらに歌う哀歌であった。
こうした繊維労働者の実態を紹介した記録がいろいろある。なかでも「職工事情」(農商務省刊、明治36年)は、労働事情調査の草分けとしての名著である。各種の工業部門について政府自らが調べ、あるがままの姿を公表している。綿紡織業、製糸業の募集の実情もつまびらかである。また、「日本の下層社会」(横山源之助著、明治31年)、「女工哀史」(細井和喜蔵著、大正14年)は、民間人による古典として評価が高い。前者は、都会や農村の下層社会の実態を調べ、繊維産業の募集や工場生活の実情にもふれている。後者は紡績女工の生活記録としてあまりにも有名である。ここでも、募集の実態が詳しく描かれている。「あゝ野麦峠」(山本茂美著、昭和43年)は、飛彈(岐阜県)から野麦峠を越えて、信濃(長野県)の製糸工場に働く女工の姿を、かつて製糸女工であった老女からの聞き書きとしてまとめたものである。
「職工事情」の附録には、明治34、5年頃の農商務省(職工の雇用管理の主管省)の関係文章が数多く載せられている。新聞に報道された女工の募集や虐(ぎゃく)待、逃走などについて、本省から関係県の警察部への照会、回答、裁判の記録などである。
それを読むと、その頃繊維工場に起こった女工の管理についてのさまざまな問題は、直接に間接に、多かれ少なかれ、手段を選ばない募集人による募集のあり方に起因しているといえよう。
募集人制度の規制
募集人の募集については、次のようなことがよく行われた。(1)応募者の無知や不案内を悪用し不当な雇用条件を押しつける。(2)誘拐同様の募集や前借金を使って人身売買と変わらぬ募集をする。(3)募集人が応募者の賃金や前借金からピンハネをする、などである。こうした弊害が甚しくなってくると、このまま放ってはおけない。各府県は、規則を作ってその規制に乗り出した。明治14年に制定された山口県の職工募集取締規則は、その第1号である。同32年大阪府が制定した募集取締規則は、需要地における取締規則の代表的なものといえよう。その内容は、工場所在地以外での募集は、警察署への届出制とした。募集に当たっての詐欺や不正はもちろん、他の会社の従業員を勧誘することも禁じられた。正当な事由があれば、契約期間内でも帰郷は拒めないこととした。募集地の規則では、募集人の守るべき義務を明示するのが通例であった。山形県では、県内産業保護のため、募集する区域を限って許可する方針が立てられた。新潟県では、工場が使う募集人の員数を制限しての取締りが行われた。