職業安定行政史

第2章 明治時代

労働行政の歩み

労働問題の発生と労働行政

“ザンギリ頭を叩いてみれば
      文明開化の音がする”
 これは明治の頃、庶民の間にはやった唄である。チョンマゲを切って外見が西洋風になった頭の中味は、新しい時代に遅れまいと、文明開化のことでいっぱいだと皮肉ったものである。
 明治は、文明開化、富国強兵で明け暮れ、45年続いた。国内では、五箇条の誓文発布、廃藩置県、西南の役、学制施行、憲法制定などが相次いだ。国際的には、日清、日露の戦争、不平等条約の改正、日韓併合などがあった。この時代は、封建社会から近代社会への脱皮に苦しみ、外国に追いつき追い越せと、国をあげて取り組んだ時代でもあった。

ここで職業安定行政以外の労働行政の歩みを、振り返ってみよう。
 まず、労働行政の組織である。明治6年に内務省が設置され、そこで一般的な社会問題、労働問題が所管される。明治14年には農商務省が新設され、工場鉱山の労働者の管理については、この省の所管となった。それからは、内務省と農商務省の2つに分かれて、労働行政が進められたわけである。
 欧米にならって工場生産方式を取り入れた日本の産業は、急速に発展していった。そこに働く労働者は急増し、その結果さまざまな労働問題が起こった。それが大きく社会問題化すると、行政措置が必要となる。こうして労働行政が誕生するが、急変していく情勢への対応は未だしで、明治時代の労働行政はまだまだ揺籃(ようらん)期にあったといえよう。

労働保護行政の始動

労働力の需要が急増して募集人制度が生まれ、募集面での弊害が著しくなったことは既に紹介したとおりである。無理な人集めが行われる一方、労務管理の面でもさまざまな問題が発生した。低賃金、長時間労働、女子や年少労働者の酷使、労働災害や疾病などがそれである。こうした問題の解決のために、識者の間から労働者保護の立法が必要だとする論が高まってきた。明治15年、農商務省では調査課を設けて、法律案作成のための資料の収集に着手した。募集人制度の弊害などに関してさきに引用した“職工事情”は、この調査課の調査によるものである。労働者保護のための法案は、その名称を“労役法及び工場条例”とか“職工法”などに変えながら、明治44年“工場法”としてようやく成立した。立法の準備にかかってから実に30年の歳月が過ぎている。それほどの日時を要したのは、繊維業界などを中心とする使用者側の強硬な反対があったからである。せっかく生まれた工場法も、施行されたのはさらに5年延びて大正5年であった。その遅れた理由としては、法制定後も経営者側の根強い反対が続いたことや、法律施行の予算が財政難で認められなかったことなどがあげられている。

工場法(明治44年)の主な内容は、次のとおりであった。適用範囲は、常時15人以上の事業場と危険有害のおそれがある事業場。12歳未満の者の就業禁止。15歳未満の者及び女子については、1日12時間を超える労働、深夜業、危険有害業務への就業などの禁止、休日は少なくとも月2回の実施。業務上の傷病死亡についての扶助制度の確立などである。適用範囲の規模は、議会審議の際に、当初の政府原案の「10人以上」が修正されたものである。
 鉱山労働者の保護については、鉱業条例(明治23年)があった。これには、労働者の安全衛生、傷病扶助の規定が設けられている。明治38年には、その条例の不備を補って、鉱業法が制定された。
 明治6年に、「職工及び役夫の死傷賑恤(しんじゆつ)規則」というのが定められている。明治初期の主な工場事業場はほとんどが国営で、その労働者が就業中死傷した場合の扶助の規則であった。民間の労働者を対象とする保護立法としては、工場法や鉱業条例が初めてのものであった。
 労働基準行政や婦人少年行政は、こうして始動した。

労働運動の発生とその規制

資本主義経済発展の過程で、職人組織による古い労働関係は解体され、新しい賃労働関係が形成されていく。そのようななかで、時代の流れに乗りきれない人達の反抗が、労働紛議として現れるようになった。例えば新技術の導入に不安を感じた鉱山労働者の暴動などがそれである。また、労働条件などの改善が遅れたまま急速に振興した紡績業では、ストライキが多発した。その主な要求は、賃金引上げや監督者の排斥などであった。この頃の労働争議は、明治13年に制定の「刑法治罪法」により、商業や農工の業を妨害する罪として取り締まられた。
 明治30年に、「労働組合期成会」という労働者団体が生まれた。労働運動の先駆者である城常太郎、高野房太郎、片山潜等によって結成されたものである。それまで労働組合らしい組合のなかった我が国での、初めての近代的労働組合といわれた。

労働争議の多発につれて、その規制は強化された。多くの府県は、府県令でストライキを禁止した。さらに警察官に工場を巡回させ、職工の集会や行動を監視させた。例えば大阪府の職工雇入止並紹介人規則(明治27年)では、「職工又は職工たらんとする者は同盟して休業又は罷(ひ)業をなすべからず」と規定している。また、大阪府の製造所取締規則施行心得(明治29年)では、警察官を毎月一定回数、事業場を巡回臨検させ、職工の集会又は秘密の運動をなすものがないかどうかを注意させた。このような取締りは、多くの府県に共通の傾向であった。明治33年に、治安警察法が制定される。この法律には、同盟罷業を事実上禁止する趣旨の規定が設けられ、それが労働運動の抑圧に使われた。
 こうした事情のもとでは、労働運動は芽のうちにつみとられ、組織的な活動は下火にならざるを得ない。しかし労働者の不満や抵抗は自然発生的に争議を生み、時には暴発もした。暴動化した足尾(栃木県)や別子(愛媛県)の鉱山の争議には、軍隊が出動して鎮圧したほどである。ともかく、労働運動に対する明治政府の措置は、治安対策としての厳しい警察取締りに終始したといえよう。

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