第4章 昭和時代(1)(戦前、戦中期)
職業紹介所の国営移管
公立職業紹介所の限界
昭和12年10月末現在の公共団体立職業紹介所718所を、経営主体別に見れば次のとおりである。
府立 1 村立 136
市立 224 町村組合立 33
町立 324 計 718
求人超過の新しい時代に入って、職業紹介所には新しい業務活動が要請される。その要請にこたえられるかどうか、それが問題である。
職業紹介所が市町村立を原則とすることは、職業紹介法で明らかである。市町村立の職業紹介所は、地域内の住民を対象としてきめ細かい職業紹介サービスが出来るので、それなりに存在の意義がある。しかも他の住民施策、例えば、生活援護、宿舎、食堂、職業訓練などとからませて、効果的に運営出来るわけである。
しかし地元を離れて就職するとか、大量の求人のため広域にわたり人集めをするようなときには、大きな不便や支障を伴う。広域的な紹介としては、求人求職の連絡方式があるとはいうものの、市町村の区域を越えての広域活動には限界がある。市町村立というのは、市町村民税によって賄われる機関であり、当該市町村民のために活動する機関として設けられたものだからである。
職業紹介所の分布、職員数、予算額なども、市町村ごとにまちまちであった。
その頃のほとんどの市には、職業紹介所が置かれていたが、郡部での分布はかなり偏っていた。例えば当時最も普及していた新潟県では54所を数えていたが、福島県ではわずか6所にすぎなかった。
専任職員の数は、1所平均3人弱であった。職業紹介所の約半数は専任職員が1人で、約4分の1の所が2人にすぎなかった。
昭和12年度の予算は、経常費で1所平均約3,000円。1,000円未満のところが66%もあった。大学卒業者の初任給が月約40円ぐらいの頃であったから、予算の大半は人件費に食われ、業務活動費にはわずかしか当てられなかった。
こんな有り様では、職業紹介所への期待がふくれても、機能の低さや市町村立の矛盾などが問題となってくる。全国的視野に立った労働力の需給調整が、うまくいくとはいえない。こうして職業紹介機関の機能拡充の必要性が叫ばれ、そこから職業紹介所の国営論がクローズアップされてきた。
職業紹介所の国営論は何もこの段階で生まれたものではない。先覚者の間では、既に大正の初めから議論のあるところであった。例えば当時の東京府職業紹介所(東京府社会事業協会立)長であった豊原又男翁は、早くからの国営論者であった。職業紹介所は、失業困窮者の慈善救済機関ではない。産業界の労務の需給を調節し、労働市場としての機能を発揮すべしとの論であった。有事の際の国民登録や将来の失業保険制度をも併せ考慮し、国営を急ぐべしと強く主張されていた。他の先人達の国営論も、それとあまり変わらない。単に職業紹介だけを考えてみても、求職者に適職をあっ旋し、求人者に適材を紹介するには、市町村の区域にとらわれずその区域を越えてサービスをする必要がある。それが職業紹介の理念であり、理想である。その意味からも職業紹介所の国営化は、職業紹介関係者の多年来の悲願であった。
職業紹介法の改正
第一線の職業紹介所からも、国営化の要望が高まってきた。市町村営職業紹介所の隘路を肌で感じていたからであろう。昭和9年の全国職業紹介所長打合わせ会議の出席者は、懇談会の席で国営化促進を決議した。翌10年には、「職業紹介所国営実行委員」を定め、運動資金を拠出し、本格的な国営化運動を始めた。
内務大臣の諮問機関である中央職業紹介委員会では、既に大正13年に、職業紹介所を適当な時期に国営とするよう答申していた。昭和10年には、さらに国営の実現に向かって、政府が一層の努力を重ねることを希望決議している。
職業紹介法は、昭和11年に一部改正が行われた。これは職業紹介事務局を廃止し、職業紹介事業の連絡監督を地方長官である都道府県の知事に移したものである。市町村立の職業紹介所の監督には、市町村を監督する地方長官を適当としての移管であった。当時の地方長官は、営利職業紹介事業や労務者募集の規制も行っていた。そのうえ産業や教育などの地方行政とも関連させながら、職業紹介事業を運営出来る利点があったわけである。この改正は、その後に続く職業紹介事業の国営移管のさきがけともいえる措置であった。
昭和13年、政府が提出した国営を実施するための職業紹介制度改正要綱について、中央職業紹介委員会の答申が出された。これを受けての職業紹介法改正法案は、国会を通過。同年4月1日法律公布、7月1日から施行されることになった。関係者一同の待望久しかった職業紹介所の国営化は、こうして実現したのである。
法改正の趣旨を、政府の提案理由から要約してみよう。「現在の情勢下で諸政策を遂行するには、労務の適正な配置を図る要がある。当面の問題としては、軍需労務の充足、事変に伴って生ずる職業の転換、帰還軍人や傷痍(い)軍人の職業あっ旋等に万全を期さなければならない。今後の問題としては、生産力の拡充計画遂行上、労務の調整について十分な配慮が必要である。このためには、職業紹介機関の機能を発揮させ、国の政策に順応しつつ、国民を適職に就かせ、需要者には適材を供給し、配置の適正と需給の円滑を図ることが肝要である。それには、職業紹介網の全国的分布と内容の充実を図るべきである。それと同時に、連絡統制の組織を強化し、全国の機関を打って一丸とし、統一ある活動が出来るよう整備する必要がある」
改正法のポイントは、大きく分けて4点である。第1、職業紹介事業は政府が管掌する。その目途は全国的に労務の適正な配置を図るにある。第2、職業紹介事業にあわせて、政府は職業指導、職業補導(現在の職業訓練)等の事業を行う。第3、第一線の運営機関として、職業紹介所を全国主要の地に配置する。紹介業務の一部を市区町村長をして行わせ、かつ市区町村ごとに連絡委員会を置く。第4、国以外の者が行う職業紹介事業は原則として禁止する。労務供給事業と労務者募集は許可制をとって規制する。であった。
国営職業紹介所の誕生と職業紹介業務規程の制定
職業紹介事業は政府の管掌と改められ、職業紹介所は国営となった。公益無料の職業紹介所が生まれてから27年目、職業紹介法が制定されてから17年目のことである。
国営移管は準備の都合もあって、2回に分けて実施された。第1回は、昭和13年7月1日、都市部の196所である。第2回は、同年11月22日、郡部の189所であった。合わせて385所の国営職業紹介所が誕生したわけである。
国営化には、まず公立職業紹介所(前年末745所)を半数近くに減らすための統廃合が必要であった。それに伴って、新しく管轄区域を設定しなければならない。職員の身分は、地方公務員から国家公務員に切り替えられた。職員を大幅に増員し、その教育訓練も必要であった。そのほか施設設備の整備充実、予算の大幅増額なども欠かすことは出来ない。どれひとつ取り上げても大事業であった。
職員の数は、前年末の1,900人から6,700人に増えた。予算は、前年度の公立職業紹介所の経常費(656所の当初予算)が197万円であった。昭和13年度の国営職業紹介所(385所)に要する経費については、約600万円の支出が予定された。なお国営移管当初は、国の財政の都合から経費の全額を国庫で賄うことが難しい情勢にあった。そこでやむをえず費用の一部を、地方公共団体に負担させる仕組みとされた。昭和15年には職業紹介法を改正して、地方公共団体による費用負担の条文を削り、全額国庫支弁の制度とした。ここにおいて、職業紹介所は、名実ともに国営の形態を整えるに至ったわけである。
職業紹介法の改正と同時に、職業紹介業務規程が制定された。これは、職業紹介業務の運営についての基本を定めたものである。その第3条に、次のような規定がある。
- 「職員ニシテ職業紹介ニ関スル事務ニ従事スル者ハ、求人者及ビ求職者ニ対シ、懇切ヲ旨トシ、公正且ツ迅速ナル取扱ヲナシ……」
いわゆる「懇切・公正・迅速」の執務の3原則がここに示されている。職業紹介業務に従事する職員へ特別に示された執務の指針であった。考えてみれば、それは国民への奉仕を義務づけられている現在の公務員の職務遂行に、そのまま適用されてもよい至言である。当時の国家公務員は、“天皇の官吏”といわれ、国民の師表としてエリート視されていた。その立派な官吏が民間の口入屋と同じように、職業のあっ旋を行うわけである。期待どおりのよいサービスが行われるかどうか、懸念されるところであった。そこで、既に定められてある官吏一般の服務規律のほかに、職業紹介業務に従事する職員に格別に示された執務の原則であった。要は、お役人気質によるお役所仕事にならぬようにとの配慮からである。3原則は、当時の木戸幸一厚生大臣の書になり、扁額として全国の職業紹介所に配られた。この指針は今でもなお、職業安定行政職員の座右銘として生き続けているところである。
職業紹介類似事項等の規制
職業紹介法の大改正と同時に、職業紹介に類似した行為や民営の紹介事業などを規制するための規則が、制定または改正された。これは国営職業紹介所の運営と関連させて、適正な労務配置を図るためであった。
営利職業紹介事業規則は従前とあまり変わらない。現に許可を受けている者に限り、経過的に認めることになった。昭和13年10月末現在の業者数は1,184人であった。
労務者募集規則は、募集人による募集を、以前と同様の許可主義とした。その所管は、従来は警察署長であったものを、職業紹介所長に移された。この規則は、昭和15年に改正され、文書による募集も規制の対象に加えられた。
労務供給事業規則は、労務供給事業についての初めての全国統一的な統制規程である。常時30人以上を供給する事業を許可の対象とした。昭和15年には、対象を10人以上と改め、翌16年には、すべての供給業者が対象となった。当時の労務供給事業の取扱い職種の主なものは、人夫、雑役、職夫、土工、大工、左官、仲仕、派出婦、看護婦、附添婦、自動車運転手、メッセンジャー、店員、料理人、浴場従業人などであった。昭和14年10月現在の供給業者は2,461人、所属労務者は12万5,000人を数えた。
無料職業紹介事業規則では、国以外が行う無料職業紹介事業は原則として禁止した。しかし現在すでに設置してあるものは、経過的に従来どおり認めることにされた。昭和13年12月末現在の事業所は13所であった。