第4章 昭和時代(1)(戦前、戦中期)
労働行政の歩み
厚生省の設置
昭和13年1月11日、厚生省が発足した。国民体力の向上や国民福祉の増進を図るため、その関係行政を総合統一し、拡充刷新する必要があるとしての措置であった。当初は、保険社会省という名称が予定されていた。しかし当時の国内情勢から、「社会」の文字に異論が強く、「厚生」が採用されたといわれる。
厚生省は、体力、衛生、予防、社会、労働の5局及び臨時軍事援護部よりになった。労働関係の行政の分掌を抜粋すれば、次のとおりである。
社会局 職業紹介その他労務の需給に関する事項
労働局 労働条件その他労働に関する事項
臨時軍事援護部 軍需労務の需給調整に関する事項
労働者保護施策の改変
大正時代の労働者保護の施策は、工場鉱山の労働者を主な対象として進められた。昭和に入ると、数次にわたって工場鉱山の関係法規が改正され、内容の整備充実が図られた。そして、保護の分野も次第に拡大されていった。寄宿舎規則、安全衛生関係規則の制定があり、災害扶助制度、退職金制度なども創設された。対象の業種も、建設、交通運輸、貨物積卸、土石採取等にまで広げられた。
しかし、満州事変や上海事変が起こり、昭和12年には支那事変に拡大する。国をあげての戦時体制の整備が始まり、各般の行政もそれにそって展開されていった。不足する労働力の確保や需給の混乱を防ぐための労務統制が進められた。労働者保護の行政についても大きな改変があった。
戦火が広がるにつれ、軍需産業では長時間の残業が行われるようになる。そのため労働者の健康の悪化や災害の増加などが目立ち、生産力に影響が出始める。この段階では、まず労働力の損耗を防ぐための行政指導が強められた。長時間労働の抑制、産業災害の防止、健康の維持の指導等がそれである。行政指導の分野は、労働者の栄養や体育、能率増進にまで及んだ。
昭和13年に商店法が、同14年には工場事業場就業時間制限令が実施された。前者はこれまで行政の枠外にあった商店労働者の保護を図ろうとするもので、特筆さるべきことであった。後者は労働力の保全を目的とし、16歳以上の男子職工の就業を1日12時間と制限したもの。成年男子の労働時間の基準が、初めて定められたわけである。昭和16年には労働者年金保険法が制定され、労働者の年金制度が創設された。
戦争が長引いてくると、戦時体制は一段と厳しくなる。軍需工場においては、保護職工の就業時間や休日の制限がゆるめられた。鉱山でも一般男子の坑内就業時間や保護坑夫の就業時間、深夜業等の制限が緩和された。女子の坑内就業も復活した。
昭和16年には大東亜戦争が始まり、戦場は拡大し戦局は緊迫していく。軍需生産増強のために、工場事業場では労働生産性の向上、労務管理の強化が図られた。これらの措置は、本来は工場事業場自らが行うべきことである。しかし非常時下ではそうした余裕もなく、国自らが管理の指導を行うことになったものである。このような推移のなかで、真の意味の労働者保護行政は休眠の状態に追い込まれてしまった。
昭和18年には工場法戦時特例が実施され、工場法の一部の施行が停止された。また工場事業場就業時間制限令も廃止され、就業時間の基準がなくなった。そして、強力な賃金統制が行われることになった。
賃金統制の推移
戦時中の賃金統制は、国家総動員法に基づいて行われた。労働力の需要が多くなると賃金の相場を高め、労働力の不足が甚しいと争奪、引き抜きなどで賃金は高騰する。労働力の需給の混乱防止や物価への影響を考えて、賃金を適正化するための規制が必要となった。その規制のあらましは次のとおりである。
◎賃金統制令(昭和14年3月制定)
- 工場鉱山の男子未経験労働者の、初給賃金の最高額及び最低額を公定するものである。我が国最初の国家的賃金統制であった。昭和15年の改正で、女子未経験労働者にも適用された。
- 直接、間接に物価に影響を及ぼす事業に従事する労働者の、賃金の基本給や賃金基準の変更による賃金引き上げ、昇給や賞与の支給を規制したものである。物価騰貴を抑制するための1年限りの応急措置であった。日雇労働者については、協定賃金や公定賃金が設けられた。
- 従来の賃金統制令と賃金臨時措置令を統合し、本格的な賃金統制の態勢を整えた。賃金の算定、支払方法を統制するとともに、最低賃金、最高初給賃金、最高賃金、平均時間割賃金、協定賃金などが実施された。
- 会社の経理を適正化するための規制を行うものである。一般社員の初任基本給料、昇給、特別手当、退職金、賞与についての制限が行われた。
- 従来物価だけの統制令であったのを、国民生活に影響を及ぼす大工、左官等の手間賃や労務供給事業の派出料なども統制に加えた。
労働運動の変化と産業報国運動
労働運動も労使関係の行政も、この時期に大きく変貌した。
大正時代から引き続く経済の不況や恐慌により、昭和初期は生活不安による労働争議が頻発していた。政府は労働組合の存在を無視出来なくなり、過激な労働運動は取り締まる一方、健全な労働組合は法律でこれを認めようとする動きが出てきた。
政府立案の労働組合法案は、大正15年に続いて昭和2年、6年と3度国会に提出された。しかしいずれも審議未了で成立に至らなかった。立法に不同意の使用者側と内容に不満な労働者側との間に、激しい対立があったからである。野党からも独自の労働組合法案が提出されたが、成立しなかった。
支那事変を機に日本は戦時体制に移り、戦争の進展とともにその体制は強化されていった。労使関係も、それに対する行政も変化していった。戦時目的達成の見地から、労使協調の必要性が強く叫ばれ始めた。労働運動は、「労使一体」、「産業報国」をスローガンとする産業報国運動の高まりの中で、次第に解消の方向をたどった。
昭和13年、産業報国連盟が官民各方面の参加を得て結成された。これを機会に、事業場単位に産業報国会の設立が進められる。産業報国会は、能率増進、待遇、福利、共済、教養などの問題について労使が懇談し、教養、保健、福利、共済、慰安等の事業を行うものとされた。戦時労務統制が次第に確立され、さらに労使一体を主眼とする産業報国運動が浸透していくと、組織的な労働争議の発生は著しく減少した。産業報国運動が起こった当初は、政府は労働組合と産業報国会を併存させる考えであった。しかし昭和14年にその方針を改め、この運動を戦時労働対策の主幹として強化することになった。
昭和15年、政治に新体制運動が始まった。社会大衆党を含む各政党が解散してその運動に加わり、大政翼賛会が発足した。こうした情勢下では労働運動も行きづまり、組織的な活動は望めなくなる。その年には、総同盟や日本労働組合会議が解散し、単一の労働組合の解体も相次いだ。
同じ昭和15年、産業報国連盟が発展解消し、厚生大臣を総裁とする大日本産業報国会が設立された。同年末には、産業報国会は6万ヵ所を越え、会員は481万人を数えた。その時点で1,000人以上の組合員をもった労働組合は、全国で足尾銅山鉱職夫組合だけになった。同組合も翌16年には遂に解散した。こうして戦前の主要な労働組合は、ほとんどが消滅してしまった。
昭和17年に、国家総動員法に基づいて、重要産業労務管理令が制定された。争議の予防、解決に必要な命令を出し、争議行為の制限や禁止も行い得ることとなった。
労使関係行政は、これまで治安行政と結びつくことはあっても、一応は自主的な労使関係の上に立って進められてきたものである。それがこの時代には、産業報国運動を足場としての、戦時労務管理行政に変わってしまったわけである。
昭和17年に労務報国会が設立された。産業報国会は、主として常用労働者の働く事業所に組織されたものである。建設業や港湾荷役など多くの日雇労働者を使用する事業での組織化は難航した。そこで日雇労働者を対象とする産業報国運動の一環として、新しく労務報国会が設立されたわけである。中央に大日本労務報国会、道府県ごとに道府県労務報国会が設けられた。主な事業は、産業報国精神の高揚、国民動員への協力、会員の教育訓練などである。労務供給業者、日雇労働者及びこれを使用する請負業者の、勤労能力の発揮と労務の適正配置がねらいであった。
転廃業対策としての職業補導事業等
戦時経済統制の強化で、中小商工業から転廃業せざるを得ない業者や労働者が増えた。これらの失業者を軍需産業へ転職させるための職業訓練が、職業補導事業として行われた。昭和13年には、136の施設で、機械工、製図工などの補導実人員は、8,047人に上った。
その後労務統制が厳しくなるにつれ、転廃業する中小企業者もその従業者も、労務動員の給源として扱われるようになった。昭和17年企業整備令が制定され、強制的に転廃業が進められる。その結果、昭和18年1月末現在の中小商工業の事業主及び従業者の廃失業者は、その虞れある者を含めて13万1,000人を数えた。職業補導施設は彼らの職業転換訓練のために拡充された。昭和18年1月にはその施設は224所、1ヵ年の補導定員は2万7,000人に増えた。そのほか昭和17年から、東部(東京)、西部(奈良)、中部(愛知)、九州(福岡)に国民勤労訓練所が、逐次開設された。ここでは、職業転換に必要な精神的、肉体的訓練が実施された。各所とも毎月1,000人の訓練を行った。
また、日本は昭和8年に国際連盟より脱退したが、昭和13年にはILOからも脱退することになった。