職業安定行政史

第4章 昭和時代(1)(戦前、戦中期)

戦時労務統制

国家総動員法の制定

職業紹介事業は、国営化により大きく転換した。取扱い数も増えた。とくに広域的な職業紹介は好成績をあげた。しかし、戦局の拡大により、兵力の補給と軍需生産の増強が緊要事となる。その方面に多数の労働者が回され、労働力は次第に涸渇していった。
 このような情勢の中で「労務統制」が始まる。これは、国の方針に基づいて労働力の需要供給を統制し、国が必要とする部門に、少ない労働力を重点的に配置しようとするものである。こうなっては、利用者の自由意思に従って行う職業紹介は、影が薄れ、やがて姿を消してしまう。そして職業紹介所は労務統制専門の機関に変貌することになる。労務統制も初めの頃は、私権を尊重したかなりゆるやかなものであった。しかし戦局の推移とともに、次第に強制的なものと変わっていった。
 戦時体制下では、戦争目的遂行のため、あらゆる部門で統制が実施され強化されるようになる。その根拠法令は、昭和13年に制定された国家総動員法である。これは、人的、物的の資源を統制運用し、戦時における国の全力を有効発揮することをねらった法律であった。その統制運用をするための国家総動員業務は、物資の生産、修理、配給、輸出、輸入、保管、運輸、通信、金融、衛生、救護、教育訓練、試験研究、情報、啓もう宣伝、警備など万般にわたった。国民の徴用、総動員業務への協力、従業者の使用、雇入、解雇、賃金その他の従業条件も、統制出来ることとされた。労働争議についても、必要な命令を行い、または行為の制限禁止をなし得ることとなった。このように大幅に国民の権利を制限する統制は、憲法違反ではないかとの論も出たところである。しかし、戦争目的完遂という名目で強行されてしまった。

労務動員計画と労務動員実施機関

昭和14年に、第1次労務動員計画が策定された。この計画では、昭和14年度の労務の需要増加数と減耗補充に必要な員数を110万人と積算している。計画の対象となる産業は、軍需産業、生産力拡充産業、その附帯産業、生活必需品産業、運輸通信業、国防土木建築業の6種であった。これらの産業に、労働力の重点的、計画的な確保を図ることになったわけである。各年度の労務動員の計画数は次のとおりで、年々増加していった。

万人
昭和14年度110
〃 15年度147
〃 16年度221
〃 17年度197
〃 18年度240
〃 19年度454

この労務動員計画は、物資動員、生産力拡充、交通電力動員などの計画とともに、国家総動員計画の重要な一環をになうものであった。
 当初は、一般の雇用労働者に限っての動員計画であった。しかし、昭和17年度からは国民動員計画と改め、対象も雇用労働者だけでなく、家庭にある者や学生など労働能力のあるすべての国民に広げられた。
 職業紹介機関は、労務動員の実施機関として労働力の給源の開拓や所要人員の充足を担当した。その第一線機関である職業紹介所の名称も、労働統制の進展にあわせて変わっていく。昭和16年1月31日には、国民職業指導所と改められた。単なる職業紹介だけでなく、国家の要請に従って国民の職業指導を行う。過剰となる中小商工業の業者や従業員についても転就職の指導を行う。そういった観点からの改称といえる。昭和19年3月1日には、さらに国民勤労動員署と変わる。戦局の急迫による戦時労務統制の厳しさが、この名称の変遷からもうかがえるところである。
 中央では、戦局の進展にあわせて機構の改革、拡充が行われた。
 職業紹介所の所管は、内務省から昭和13年に新設された厚生省に移った。しかし労務動員の強化につれて動員行政の一元化を図るため、昭和17年には国民職業指導所の管理は内務省に移管された。都道府県でも、従前の学務部系統から警察部へ移された。これは、戦時労務統制が、警察行政として運営されるようになったことを意味する。
 国民勤労動員署は、その頃の人達から大変怖れられた役所であった。軍隊からの召集令状に次いで恐がられていた微用令書をも、発行するところだったからである。微用令書を受け取ると、身体に支障のない限り、指定された工場などの業務に従事することが義務づけられていた。

戦時労務統制法規

戦時労務統制は、まず技術者、技能者、続いて青少年労働者などの不足や安易な移動に対処してのものであった。それも、労働者の雇入れや使用についての企業側に対する規制で始まった。それが次第に、働く者自身の就職や退職にまで及んでいった。また当初の規制は、雇用労働者を中心に行われたものであった。しかし、労働力給源の絶対的な不足から、やがては老若男女を問わず働き得る全国民を対象とする規制に変わっていった。
 労務統制の始まりは、昭和13年8月の学校卒業者使用制限令である。産業界では技術者の不足が著しく、各企業間に工鉱業系の新規学校卒業者の争奪戦が激化した。このため、卒業生の就職分野の偏在を解決し、適正配置を図ることとなり、工鉱業関係新規学卒者の割当による雇入れ制が採用されたのである。

労務統制は、労働力の質と量の両面の不足に対処する措置である。それは、労働力の充足と需給の混乱防止を主眼とした。戦局の急迫に追われて、次々に労務統制法規が生まれ、改正され、規制が強化されていった。その主な関係法令の概要は次のとおりである。
◎学校卒業者使用制限令(昭和13年8月制定)

  •   技術者を緊急部門に重点配置するため、工鉱業関係新規学卒者の割当雇入れ制を採用した。指定学校の卒業者の雇入れ人数については厚生大臣の許可が必要となった。
◎国民職業能力申告令(昭和14年1月制定)
  •   国民の職業能力を把握するために行われた登録制度である。労務動員の基礎資料を得るためのもので、登録機関は職業紹介所であった。当初の登録は、戦時に最も緊要な職業能力の保有者に限って行われた。昭和15年10月の改正で「青年国民登録」が実施され、16歳以上20歳未満の男子は、すべて登録を申告することとなった。昭和16年10月には、16歳以上40歳未満の男子及び16歳以上25歳未満の女子にまで拡大して「青壮年国民登録」と変わった。昭和16年10月末の登録数は874万人であった。
◎従業者雇入制限令(昭和14年3月制定)
  •   軍需工業などの技術者、熟練工の引き抜き争奪を防ぐため、その移動を制限した。16歳以上50歳未満の男子の雇入れには、原則として職業紹介所長の認可を要した。
◎工場事業場技能者養成令(昭和14年3月制定)
  •   熟練労働者の不足対策として、一定の工場事業場に組織的な技能者養成を義務づけた。養成期間は原則として3年。昭和18年の養成修了者は13万人であった。
◎国民徴用令(昭和14年7月制定)
  •   職業紹介所の紹介などによっても労務を充足出来ない総動員関係業務に、労働者を徴用し配置するものである。徴用は厚生大臣の権限に属した。最初の徴用令の発動は、昭和14年7月、中国大陸方面の陸軍関係建築作業に従事する850人についてであった。当初は国民職業能力申告令による登録者の中から徴用したものである。昭和15年10月には、登録者以外からも徴用が出来るように改められた。昭和16年の徴用数は93万人であった。
◎労務動態調査規則(昭和14年11月制定)
  •   産業全般における労働者の雇入れ解雇等の調査を行うものである。労働者の就業状況や労務の過不足の状況を正確につかむ必要から実施された。昭和19年4月制定の勤労統計調査令に統合、廃止された。
◎青少年雇入制限令(昭和15年2月制定)
  •   重要産業での若年労働力確保のため、青少年の不急産業への雇入れ規制を行った。12歳以上30歳未満の男子と12歳以上20歳未満の女子の雇入れには、職業紹介所長の認可が必要となった。
◎機械技術者検定規則(昭和15年3月制定)
  •   機械工作、金属加工の労働者を検定により技術者とする途を開き、技術者不足の緩和を図った。昭和16年5月公布の機械技術者検定令に統合された。
◎従業者移動防止令(昭和15年11月制定)
  •   従業者雇入制限令を改め、制限内容を強化したものである。移動制限の対象を14歳以上60歳未満の男子に拡げた。
◎国民労務手帳法(昭和16年3月制定)
  •   労働者の経歴、技能程度などを記載した手帳制度である。14歳以上60歳未満の労働者には、国民職業指導所が交付する国民労務手帳の所持を義務づけた。この手帳制を基礎として、各種の労務対策がとられた。
◎国民勤労報国協力令(昭和16年11月制定)
  •   従来の雇用労働者を対象とした対策だけでは労働力の確保が困難なため、一般国民による勤労報国隊を編成し、総動員業務に協力させた。厚生大臣、または都道府県知事から、市町村長や団体の長などに編成の命令が出る。隊員は原則として14歳以上40歳未満の男子、14歳以上25歳未満の未婚の女子である。昭和19年度の勤労報国隊の出動数は518万人であった。
◎労務調整令(昭和16年12月制定)
  •   従業者移動防止令及び青少年雇入制限令を廃止し、この政令で従業者の解雇、退職、雇入、就職の制限を強化した。昭和18年6月には、女子で代替出来る職種への男子の就業を制限、禁止した。
◎軍需会社微用規則(昭和18年12月制定)
  •   厚生大臣が指定する軍需会社の生産担当者や従業員の確保を図るため、それらの者は微用されたものとみなした制度である。いわゆる事業ぐるみの微用で、その会社の勤労総力の充実発揮を期した。
◎女子挺身勤労令(昭和19年8月制定)
  •   男子の就業を制限又は禁止された職種については、自主的に組織化された女子挺身隊で充足していた。その女子挺身隊に法的根拠を与え、女子の労務動員を促進したものである。戦争終結時の隊員は47万人であった。
◎学徒勤労令(昭和19年8月制定)
  •   一般労働力の涸渇に対処し、中学校以上の学生を工場事業場等に動員する体制を敷いた。戦争終結時の動員学徒は193万人であった。
◎国民勤労動員令(昭和20年3月制定)
  •   学校卒業者使用制限令、国民徴用令、労務調整令、国民勤労報国協力令及び女子挺身勤労令を整備統合して一本化した。そのねらいは、軍動員と連けいしながら、各産業を通ずる総合的な国民勤労動員の実をあげることを期したものである。

戦争末期近くになると、生産青年層の新規給源はほとんど皆無の状態となってしまった。そのため労働力の確保は、微用による調達と学生や女子の活用に頼らざるを得なくなった。こんな情勢下で昭和20年の国民動員計画の策定は中止された。そして、決戦兵器の生産、燃料や原料の確保、食料増産などの緊急部門の労務充足を、国民全体の労働力の総動員で図ることになった。しかしその実施は、空襲などの事情から容易ではなかった。戦争終結時の労務動員の概数は、次のとおりであった。

千人
被微用者数6,164
動員学徒数1,927
女子挺身隊隊員数473
外地からの労働者移入数357
その他一般従業員数
(鉱、工、交通業)4,183
  計13,104
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