第3章 大正時代
労働行政の歩み
労働運動とその取締り
大正時代は15年で終る。明治になって文明開化の道を走り出した日本であったが、大正は内憂外患の連続で、近代化への脱皮に苦悩した時代ともいえよう。
第1次世界大戦で、つかの間の好景気ににぎわった日本も、戦時中からの物価の高騰に苦しんだ。大戦後は経済恐慌に襲われ、失業者は多発し、国民の生活は窮迫するばかりであった。米騒動が全国的に発生したのも生活苦からである。大正6年ロシア革命が起こり、革命的な潮流は世界各国に広がった。こうした内外の情勢をバックに、労働運動は大きな高まりを見せ、争議は頻発し激化の傾向をたどった。労働者の要求は、もっぱら賃上げに集中した。日本の第1回のメーデーは、大正9年5月2日に東京の上野公園で開かれている。
明治以来、政府は労働運動に対して、厳しい警察的取締りを続けてきた。それを大正8年には、穏健な労働団体の成立は阻止するものではないとの、緩和した方針を明らかにした。その翌年には、「臨時産業調査会」を設け、労働組合法の起草にとりかかった。時代の流れの中で、労使関係の安定と労働運動の健全な発展が課題となってきたからである。労働組合法案については 規制の方針などで内務省と他省との間に考え方が対立し、その調整が難航した。使用者側は、法律の制定そのものを強硬に反対した。労働者側では、その立場立場で意見が分かれ、制定反対、法案修正、代案作成など、活発な動きが起こった。
大正15年、政府による労働組合法案が国会に提出されたが、審議未了で不成立に終わった。その後、昭和2年、同6年の2回にわたる国会への提案も、実を結ばなかった。労働組合法が誕生したのは、戦後の昭和20年になってからである。
大正14年には治安維持法が制定された。国体の変革や私有財産制度の否認への取締りを強化した法律であった。それは、思想、信条、集会、結社の自由の抑圧につながり、労働運動は厳しく監視されるようになった。
大正15年には、労働争議調停法が制定された。調停委員会を設け、労働争議の調停を行うことを目的としたものである。しかし、労働組合法もなく、労働者の争議権も認められていないため、調停の効果は上がらない。法律制定後の5年間に調停委員会が取り上げたのは、わずかに2件にすぎなかった。
ILOの会議には、その都度労使や政府の代表が出席する。大正11年までは、「日本を代表し得る労働団体がない」との見解から、労働者代表は政府自身の考えで選んできた。この選出方法は労働組合の存在を無視するものとして、労働者側から強い抗議活動が続いていた。大正12年になって、漸く1,000人以上の組合員を持つ労働組合に、労働者代表の選出権を与えることに改められた。このことで政府は労働組合の存在を事実上公認したわけである。
労働者保護法規の整備
労働者の保護法規として制定された工場法は、5年後の大正5年にようやく施行されることになった。しかしもうその頃には、その工場法を改正しようとする気運が生まれつつあった。法定された労働者保護の基準が低いうえに、主な原則は例外規定でかなり無力化されていたからである。大正8年にILOでは、8時間労働制などの条約案が採択された。国内での労働者の生活は、物価高で悪化するばかりである。そうした情勢をバックに、労働者の保護を厚くすべきだとする動きが、高まってきた。
こうして工場法は、大正12年に改正され、同15年から施行された。主な改正点は、適用範囲の企業規模を15人から10人とする。保護職工の年齢を15歳未満から16歳未満に改める。保護職工の就業時間の制限を12時間から11時間に縮める。そのほか保護職工の深夜業の禁止の改正なども盛り込まれた。
工場法の改正と同時に、工場労働者最低年齢法が制定された。これは、ILOで採択された「工業に使用し得る児童の最低年齢を定める条約」を批准する必要に迫られて、国内法を整備したものである。これによって、最低年齢の原則が14歳(従前は工場法により原則として12歳)に引き上げられた。さらに、鉱業法、鉱夫労役扶助規則、傭人扶助令、健康保険法、黄憐マッチ製造禁止法等、法令の制定や改正が相次いだ。こうして、労働者の保護施策は、一段と前進した。
職業補導事業、労働行政機関
工場法には、徒弟についての条項があり、事業主の守るべき義務が規定されている。徒弟制度は、古くから職人などを養成訓練する主要な手段であった。その意味からすれば、職業訓練関係の規定のはしりでもあったわけである。
企業がその従業員をみずから訓練することは、必要に応じて随時行われていた。しかし、公共的な訓練の施設を設けて、組織的に職業補導の事業が創められたのは大正12年であった。東京市が鐘ヶ淵紡績株式会社からの寄附で職業補導会を設立し、失業者救済のための短期の訓練を行うことにしたものである。その翌年には、東京市立の職業補導所が設置され、市営の職業訓練事業がスタートした。職業訓練施設に対し国庫補助が行われるようになったのは、昭和2年からである。
大正11年に、内務省の外局として、社会局が設けられた。第1次世界大戦後の産業の発達や社会情勢の推移に伴い、労働問題や社会問題が、重要な課題となってきた。それらの問題は、これまで内務省だけでなく各省に分かれて所管されていた。それを統合して措置する必要が強まっての、社会局設置であった。これで労働行政は、社会局で一元化されることになった。
地方庁の労働行政機関としては、工場法の施行のために、警察部に工場監督官が置かれた。労働運動の規制は、依然として警察部の所管であった。