第3章 大正時代
公立職業紹介所の業務の拡充
広域紹介、少年職業紹介
職業紹介法の制定により、公立職業紹介所の業務は進展した。施設の整備が進み、専任職員も置かれるようになったからである。特に遠隔地への職業紹介、今でいう広域紹介は、一段と前進した。
大正9年、内務省の指令で、財団法人協調会は、中央職業紹介所(翌年中央職業紹介局と改称)を設けた。全国の中央機関として、求人求職の連絡統一、需給の調整などを行うためである。
大正12年にはこの組織が廃止され、職業紹介法に基づいて、中央職業紹介事務局と、東京、大阪に地方職業紹介事務局が新設された。地方職業紹介事務局は内務省の地方ブロック局で、職業紹介所の指導監督や業務の連絡に当たる機関である。このブロック局は漸次増設され、最終的には青森、長野、名古屋、岡山、福島を加えて7局を数えた。こうして全国的な広域紹介が、組織的に進展できるようになった。
遠隔地への職業紹介を進める場合の問題として、就職旅費の負担ということがある。当時その旅費は、就職者の側で負担するのが普通であった。しかし貧しい者にとっては、その出費に堪えられず就職出来ない場合も起こる。そこで労働移動を容易にするため、就職旅行の汽車汽船賃を5割引する制度が、大正12年からスタートした。
割引の対象者は、職業紹介所の紹介により、就職地まで旅行する就職者である。雇用期間は3ヵ月以上で、月収100円以下の者に限られた。月収による制限は、高給者へは割引の要はないとの考えからであった。
その手続きとしては、職業紹介所長から、旅行証明書とともに、就職者汽車汽船賃割引証が交付される。これを駅に提出すれば5割引の恩典を受けることになる。
この制度が発足した大正12年度中の割引証の発行は、985枚であった。それが大正15年には3,424枚、さらに5年後の昭和6年には14万4,077枚と激増した。この増加は、昭和4年から、3ヵ月未満の季節的出稼ぎ者にも割引証の交付が認められるようになったからである。ともあれこの割引証制度の存在が、当時の広域紹介の推進に大きく貢献したことはいうまでもない。
割引証制度は、昭和23年に廃止されるまで続いた。その廃止は、敗戦後の日本を占領していた連合国軍司令部の指示によるものであった。同司令部は就職旅行の旅費は採用者側が負担すべきものであるとして、就職者の負担を前提とする割引証制度に否定論が出たからである。
大正時代の公立職業紹介所の利用促進のPRは、“紹介は無料”“就職旅行の運賃は5割引”の2つが目玉であった。業績の面では、公立職業紹介所は営利紹介事業をかなり下回っていた。そこで営利紹介事業には見られぬ職業紹介所のサービスの特徴を積極的に宣伝し、客寄せを図ったわけである。
広域紹介とならんで、少年の職業指導や職業紹介も活発になった。新規の小学校卒業者や未成年者の職業紹介を、その頃は“少年職業紹介”と呼んでいた。戦前の義務教育は小学校まで。その卒業者のほとんどが働きに出た。職業経験がないか、あっても乏しい年少者にとっては、就職は生涯の重大事である。単に就職口の確保だけではなく、適職に就かせるには適性の判定や選職のための相談や指導が重要である。大正9年、大阪市に少年職業相談所が設立された。その翌年、東京でも、東京市中央職業紹介所に性能診査少年相談部が設けられた。大正14年には、東京府職業紹介所にも、東京府少年職業相談所が附設された。やがて他の都市にも同様な相談施設が設けられ、大きな職業紹介所には少年係が置かれるようになった。そこでは各種のテストが行われ、きめ細かな職業指導が実施された。
大正14年には、内務省と文部省との連名で、「少年職業紹介に関する件」が通達された。その内容は、小学校卒業後直ちに求職する者には、小学校と職業紹介所とが連絡協力して、適職選択の指導を行うようにとの指示であった。この通達は、それからの新規学校卒業者の職業紹介方式を進める原点となった画期的なものである。
少年職業紹介に関しては、いろいろな施策が講じられた。職業紹介所と小学校との連絡委員会の設置。父兄懇談会、職場見学、職場実習、求人開拓などの実施。就職後の指導を兼ねた慰安激励のレクリエーション等の開催、永年勤続者の表彰などがその例である。
新規小学校卒業者の職業紹介による就職者数は、大正15年は6,300人。5年後の昭和6年には2万500人に増えた。
営利職業紹介事業と労働者募集の全国的規制
女工などの人集めに奔走する募集従事者の弊害は、依然として眼に余るものがあった。これまでのように、道府県ごとにまちまちな規制の適用範囲、手続き、内容では、円滑な取締りは期待出来ない。そこで大正13年、労働者募集取締令が制定(翌年施行)され、全国を統一した規制が実施されるようになった。募集従事者の活動は、知事の許可を受け、募集従事者証の携帯を必要とした。そのほか、届け出や報告の義務、禁止条項等が明定された。
営利紹介事業は、ILOの勧告などから禁止される方向にあった。けれども全面禁止はまだ尚早で、厳重な監督のもとでの存続ということになった。大正14年、職業紹介法の規定に基づいて、営利職業紹介事業取締規則が制定(昭和2年施行)された。それまで道府県ごとに区々であった規制が、これで全国統一的に行われるようになったわけである。事業は知事の許可制、届け出や報告の義務づけ、宿屋、料理店などの兼業禁止、職業紹介所という名称の使用禁止が、その主な内容であった。なお営利紹介事業は、大正の末期がピークであった。業者数は大正13年には1万を超えた。そのあっ旋による就職者数は大正15年には約62万5,000人に上った。
大量失業者の発生とそのあっ旋
第1次世界大戦は、日本に異常な好景気をもたらした。参戦したとはいえ、日本は主戦場から遠く離れて、高見の見物席にいたようなものである。軍需品、生活必需品などの輸出でボロもうけをし、海運、造船、製鉄を中心に俄成金(にわかなりきん)が続出した。しかし戦争が終わると、深刻な不況が襲い、倒産、工場閉鎖、大量解雇が相次いだ。陸海軍や官営の工場も例外ではない。その従業員解雇の主なものを、数字であげてみると次のとおりである。
大正12年3月、陸軍の工作廠(しよう)で5,300人、同年11月、海軍の工作廠で4,496人。
大正13年5月、陸軍の工作廠で4,058人、海軍の工作廠で7,300人、造幣局で700人。
当時はまだ失業保険や失業対策事業の制度はなく、失業者の対策はもっぱら職業紹介所のあっ旋に頼るばかりであった。そこで、職業紹介機関のめざましい活動が展開される。解雇地には臨時の職業紹介所が、東京と大阪には連合職業紹介所が設けられた。特別な求人開拓班を組織するほか、求人・求職の広域連絡、解雇予告期間中の相談が活発に行われた。解雇された者のすべてが求職したわけではないが、求職者の半数近くを就職させることが出来た。
こうした情勢に追い打ちをかけたのが関東大震災(大正12年9月1日)である。激甚災害を受けた京浜地域やその周辺は、一瞬に壊滅して大半が焦土と化した。人命や家屋の被害は、次のとおり甚大であった。
死者9万9,000人、負傷者10万3,000人、行方不明4万3,000人。家屋の焼失44万7,000戸、全壊12万8,000戸、半壊12万6,000戸。
交通は途絶え、食料は欠乏し、人心は静まらず、治安は逼迫した。京浜地区には戒厳令がしかれたほどである。民生、経済両面に受けた打撃は極めて深刻。住むに家なく、働くに職場のない人達は、巷(ちまた)に満ちあふれた。震災後の11月に行われた内務省の調査では、罹災失業者は東京府で9万6,103人(人口1,000人中36.6人の割合)、神奈川県で2万9,143人であった。
職業紹介所自身も、東京12所、横浜5所、横須賀1所が災禍を受けた。全焼したり、倒壊したのである。京浜地区の職員のほとんども罹災していた。それでも焼跡にテントを張り、焼け残った建物を借りて、店を開いた。交通途絶のなかを出勤して、失業者の就職あっ旋はもちろん、復興に必要な求人の緊急充足に不眠不休の努力を続けたものである。
政府は直ちに「関東大震災による失業対策の方針」を定め、対策にのり出した。その主な内容は、建設工事を繰り上げ施行し、それに罹災失業者を使用する。消滅官営事業で地方に工場があれば、労働者をそこへ移す。地方へ移動する失業者や家族は無料輸送を行い、旅費を貸し付ける。職業紹介事業の普及充実を図る、などであった。罹災者の就職あっ旋活動のために、震災応急費90万2,825円が支出された。
政府の定めた失業対策の方針に基づき、職業紹介所は全力をあげての活動を始めた。まず東京市内外に20所、横浜市に5所の職業紹介所を新設することとなった。焼けたり、崩れ落ちたりした施設の復旧のためである。それが竣工するまでの間は、テントの中や残壁の間で執務した。求職者が就労するに必要な労働用具の貸し出し、移転して就職する者への旅費の貸付、日雇や臨時雇用で働く者に対する賃金の立替払いが始まる。広域的に職業紹介所が協力しあって連合求人捜査班を編成し、求人開拓に努める。求人集めのための新聞広告やポスターの配布なども行った。中央職業紹介事務局に地方移動交換部を置いて、全国的な労務の需給調整を図り、かつ各府県に対し、京浜地区への求人口通報を依頼した。社会局主催の木工講習会では短期間に多くの木工を養成し、その就労をあっ旋した。こうした施策が、罹災失業者のため次々と講じられた。
ここで、当時の東京市中央職業紹介所の状況を紹介してみよう。
東京市中央職業紹介所は、神田橋のたもとにあった。災禍で建物は焼失し、西側の荷揚場(にあげば)の空地で仮事務所が開かれた。その後、大手町の警察教習所の庭に事務所が移る。さしあたっての求人は、焼跡の片付人夫であった。応急的な復興が始まると、道具持参が条件の大工の求人が殺到してきた。求職票や紹介状などの用紙は焼けて無い。そこで求職者を先着順に並ばせ、求人数に応じて求人者に引き渡すという方式がとられた。
集まった求職者は長蛇の列をなし、夜になっても道路に寝ころんで求人を待った。職業紹介所では、ござやむしろを敷いてやったり、テントを張ったりした。焼け出されて家もなく、食べ物もない求職者は、誰もが腹ペコである。紹介先では、仕事を始める前に食事を給することが、重要な求人の条件となっていた。
職業紹介所の職員も罹災して、弁当を持ってくることも出来ない。そこで、女子職員が炊き出しをして、握飯(にぎりめし)が配られる。握飯が残ると、それを求職者に分けたそうである。それも数が少ないので、順番の最後尾の方から配ったという。先頭に近い者は、求人があれば紹介先で食事にありつけるとの理由からである。
街で食べ物らしいものが売られるようになったのは、かなり後のことであった。電灯が灯ったのは9月の末近くで、電車が動いたのはさらに遅れた。職員は、歩いて出勤し、昼は勤務で忙しく、夜は夜で治安を守るために、連夜居住地の町内の警備にかり出され、心身ともに疲れ果てたといわれる。古老の懐古談であった。
大正12年9月1日から、翌年の3月末まで、6ヵ月間の罹災求職者は76万8,435人、紹介件数は61万9,630件。ほとんどが臨時や日雇の求人へのあっ旋であった。
失業救済事業の実施
第1次世界大戦後の経済恐慌や関東大震災で多発した離職者のあっ旋は、職業紹介所の真価を問う試金石でもあった。職員は懸命の努力でその試練を乗り切り、世間の期待にこたえた。離職者対策の展開は、職業紹介事業運営の基盤を強化し、かつそれを近代的に脱皮させる効果もあった。しかし就職のあっ旋は、求人が無ければ成り立たたない。その意味から、みずからは求人を作り出せない職業紹介は、多数の失業者のための即効薬となれない弱さがあった。
大正13年には対外為替大暴落もあり、経済の不況はいよいよ深刻化した。大量解雇が相次ぐ都会には貧窮農民の流入もある。都市に滞留する失業者は、日雇就労でやっと糊口をしのぐという有り様である。その日雇労働も、それまでは夏は求人超過、冬は求職超過が通例であったが、大正14年の夏は異例の求職超過となった。米価をはじめ諸物価は高騰し、庶民の生活を脅かす。解雇反対の争議は続発し、失業者の集団デモは激化する。こうして社会不安が募ると、失業救済の積極策がどうしても必要となってくる。
大正14年、政府は冬季に限って6大都市で、我が国初めての「失業救済事業」を起こすことになった。この事業は、労働力を主体とする土木工事で、不熟練労働者の就労に適するものを選ぶ。就労者は、職業紹介所の紹介による失業者とする。賃金は、その地方の普通の賃金よりは低額とし、日払いとする。必要に応じ、職業紹介所で立替払いを行う。などの原則が立てられた。事業の労力費は事業費総額の平均3割以上とし、労力費に対する国庫補助率は2分の1とされた。大正14年に起こされた失業救済事業の特色としては、①施行地域が6大都市に限られ、②施行時期は冬季で、③救済の対象は日雇就労の失業者を主眼とした、ことがあげられる。失業者に、「金品を施与するが如きは、徒(いたずら)に懶怠(らんだ)の風を助長するの弊に陥りやすい」として避け、就労による失業対策を進める制度であった。この失業救済事業は、昭和24年の緊急失業対策法により始められた失業対策事業の原型といえよう。
事業は、道路新設、修築、河川溝渠浚渫(こうきよしゆんせつ)、堤防改築、上下水道工事、橋梁(きようりよう)架設、埋立などの工事が主であった。それへの就労失業者は、大正14年度は延べ約96万人(1日平均就労人員約7,000人)を数えた。この失業救済事業施行の効果としては、①失業者が減少した、②労働者街が活況を呈した、③労働紹介所(日雇労働者の紹介を専門に扱う職業紹介所)の利用が促進された、という記録が残っている。
失業救済事業が起こされて、6大都市における労働紹介の日雇求人数は、次のように増加した。
大正14年1月~4月(起工前)――延べ28万5,000人
大正15年1月~4月(起工後)――延べ91万1,000人
働き口のない失業者にとって、失業救済事業は大きな光明となったに違いない。と同時に取扱数の急増は、失業者の登録、紹介、賃金立替払い等の業務量の増加を招き、労働紹介所が頗る繁忙を極めたことも事実である。