職業安定行政史

第3章 大正時代

職業紹介法の制定

職業紹介法制定までの経緯

第1次世界大戦が起こると、日本は異常な好景気を迎えた。この大戦に加わっても、地理的な関係から直接の戦闘は少なかったうえに、戦争に便乗しての貿易が大いに振るったからである。しかし大戦が終わる(大正7年)や、厳しい不況が訪れた。産業界では倒産、事業所閉鎖が相次ぎ、離職者は続出して、深刻な失業情勢となった。
 大正7年、内務省に「救済事業調査会」が設けられた。社会政策一般を調査審議する諮問機関である。翌8年同調査会は、内務大臣からの失業保護についての諮問に対して答申した。労働需給状況の把握、公益職業紹介所の設置及び相互連絡、土木事業の起工、失業者の帰農などの対策が答申の主な内容であった。
 失業問題の悪化により労働者団体は、失業防止、失業保険法の制定などの要求を中心に、強い運動を広げていった。国会でも活発な論議が続けられた。
 大正9年、職業紹介事業の連絡統一機関として財団法人協調会が指定され、そこに中央職業紹介所が置かれた。ここでは、全国の職業紹介所における求人求職の広域的な連絡調節を実施するほか、業務統計の集計などを行った。

職業紹介法の制定

このような情勢をバックに、職業紹介事業について法的な整備を図る機運が高まっていく。大正10年1月、社会事業調査会(救済事業調査会の改称)に職業紹介法案要綱を諮問。国会に法案提出、可決。同年4月職業紹介法公布。同年7月1日から一部の規定を除いて施行となった。
 職業紹介法は15条から成り、その主な内容は次のとおりである。

  • 1 職業紹介所の設置主体は市町村とし、市町村長がこれを管理する。
  • 2 職業紹介所の職業紹介は無料とする。
  • 3 職業紹介所の事業の連絡統一を図るため、中央及び地方に職業紹介事務局を置く。(大正12年から施行)
  • 4 市町村の職業紹介所に関する経費の2分の1以内を、国庫から補助する。(補助率は政令で定められ、建築費及び初度調弁費については2分の1、その他の費用は6分の1の補助とされた)
  • 5 市町村以外の者が職業紹介所を設置しようとするときは、行政官庁の認可を要する。(この場合の行政官庁は、道府県知事)
  • 6 有料、または営利を目的とする職業紹介事業に関しては、別に定める。

こうして待望久しい職業紹介法が誕生した。これまで職業紹介事業についての法令による規制は、営利事業の場合だけであった。それも道府県ごとの事情に応じ、それぞれの条例や規制によって行われていたにすぎない。職業紹介事業は、市町村営ながらも、法律に裏づけられて運営されることになったわけである。職業紹介所が国営化されるのは、それより17年後の昭和13年からである。

職業紹介法案の国会提出理由のなかで、政府はこの法案を「失業救済に関する社会政策立法の1つである」と説明している。そしてさらに、「公益的職業紹介事業がその効果をあげるには、公共団体のような有力団体に経営させ、広域的な連絡統一を保つ運営を行わせるべきである。特に失業者に対する保護の施設として、その必要がある」といった趣旨のことを述べている。
 発足の当初は、貧しい人への慈善事業的発想で創められ、運営もそういった色彩の濃い公益職業紹介所であった。しかし社会情勢の推移のなかで、失業者の就職確保を図る失業救済の施設としての役割を、期待されることになったわけである。

職業紹介法とILO

職業紹介法の成立には、国際的な事情も大きく影響した。第1次大戦が終わった後、国際労働機関(ILO)が発足した。労働条件の改善によって社会正義の実現、恒久平和の確立を図ることを目的として設立されたものである。そしてこれからの労働問題は、国際的な協力によって改善していこうというねらいであった。大正8年、ワシントンで第1回の総会が開かれた。「失業に対する予防又は救済の件」について審議が行われ、失業に関する条約案と勧告が採択された。
 条約案には「中央官庁の管理下にある公の無料職業紹介所の制度を設くべし」とある。万国共通の職業紹介制度の原則を宣言したものである。この条約は、職業紹介法制定後の大正11年に批准された。職業紹介法では、その批准を見越して、法案起草の段階で、条約の原則を取り入れてあったのである。
 なお同時に採択された勧告には、有料職業紹介事業の禁止、失業保険制度の創設、失業対策のための公共事業の調節などが述べてあった。

職業紹介無料の原則と紹介手数料

職業紹介法の制定に関連して、こんなことが起こった。大阪市では、大正8年に条例で、市立の職業紹介所の紹介手数料制度を設けた。紹介により就職が決まれば、雇主から10銭、就職者から5銭を徴収しようとするものである。運営の都合から、受益者負担として考えられた手数料であった。しかし、無料を大原則とする職業紹介法の施行で、この制度は廃止された。
 同じような例は、他の地方でも見られる。大正7年、鹿児島市も条例で、雇主から50銭、就職者から30銭の紹介手数料をとることを定めた。鹿児島県の西加世田村(現在加世田市)でも大正10年の条例で、雇主からだけ、職工1人につき5円、徒弟や店員1人につき1円の手数料を徴収することにした。その頃紡績業の女工募集費の相場は、当地で1人当たり12円ぐらいだったようである。職業紹介所のあっ旋にも費用がかかるので、この程度の額ならば、実費として負担してもらってもよいのではないかとの考えからであった。いずれの場合も、その後制定された職業紹介法の無料の原則から廃止せざるを得なくなったのはもちろんである。
 職業紹介法は、昭和22年に職業安定法が制定されるまで、数回改正され26年間存続した。

ページトップへ

トップページ 一般財団法人 日本職業協会について 職業に関する情報・資料等 リンク集