職業安定行政史

第3章 大正時代

公立職業紹介所職員の勤務

公立職業紹介所の増加と運営

職業紹介法施行(大正10年)直前の公益職業紹介所は、384所であった。この普及のテンポは、その前年頃から急に早まったようである。しかし、新しい職業紹介法によって国庫補助を受けるには、政府の定めた新しい補助要件を満たさなければならない。専任職員を置くとか、施設の整備などが必要である。その結果、適格な職業紹介所として残ったのは、僅か49所(うち私立18所)にすぎなかった。
 その頃、職業紹介所の数が最も多かったのは長野県であった。県当局の強い勧奨もあり、大正10年6月末には204所を数えた。その内訳は、郡立11、市立3、町村立153、郡農会立2、町村農会立35である。それらが職業紹介法に基づく必要な補助要件を整えて残ったのは、市立の3所(長野、松本、上田)だけであった。
 職業紹介法の制定に力を得て、職業紹介所は全国的に次第に増加していく。翌11年には106所、5年後の大正15年には187所、10年後の昭和6年には421所を数えるようになった。

公立の職業紹介所の運営で、非常に懸念されたことがあった。そこに働く職員は、今でいえば地方公務員である。お役人が口入屋の仕事を始めてうまくいくだろうか、よいお世話が出来るのだろうかとの心配である。官尊民卑の傾向が強い当時のこと、お役所的な運営を庶民が恐れるのは当然であろう。明治の末に、簡易保険の事業が官営となったとき、官吏が保険屋の仕事をやれるかとの議論があったのに似ている。
 けれども心配されたようなことは起こらなかった。職業紹介所の設備は、十分とはいえない。職員の数や経費も不足がちである。それでも、職業紹介に従事する人々には、誠心こめた奉仕の熱意があった。初期の無料の職業紹介事業は、宗教団体や社会事業団体によって始められ、広められたものである。それらの団体の人々が職業紹介に取り組んだ奉仕と犠牲の精神は、公立職業紹介所の手本とされた。経営の責任者から一般の職員に至るまで、そうした心構えは行き渡り、お役所的運営の心配が杞憂に終ったことはいうまでもない。厳しい失業情勢の中で求人は少なく、訪れる求職者に満足な紹介が出来ないという問題はあった。しかし、職業紹介所の取扱いがお役人的だとする声は、ほとんど聞かれなかった。
 その頃の職業紹介事業の大先輩であった大阪の八浜徳三郎翁の愛吟歌に、次のようなものがある。
 手をとりて共に泣かばや
  泣く人の痛む心に心あわせて
 泣く人の涙たづねてぬぐわなむ
  わが眼ぬぐいし袖をすすぎて
 “泣く人”とは、職が無くて泣く求職者。彼らに対する接遇のあり方を、この歌に託して指導したといわれる。求職者の涙を体し、常に奉仕の精神と下座の態度の必要を説かれた。こうした取組みは、公立の職業紹介所にも取り入れられ、接遇の基本姿勢となっていた。

東西の先覚者

その頃、よく“東の豊原、西の八浜”という言葉が聞かれた。草分けの時代から、率先し実践して、日本の職業紹介事業を開拓し導いた2人の大先達のことである。
 東の豊原又男翁は明治5年新潟県の生まれ、18歳で上京。秀英社(大日本印刷の前身)に入り、佐久間貞一社長の片腕として活躍するほか、労働問題に心血を注いで取り組まれた。大正9年、東京府社会事業協会が、東京府中央工業労働紹介所(その後東京府職業紹介所と改称)を創設すると、その顧問、翌年には所長に就任。昭和12年、東京府立の東京府職業紹介所長。翌13年、職業紹介事業国営化の際に現役を引退された。大正12年には、ILO総会に使用者代表の顧問として出席。その帰途欧米各国を回り、職業紹介事業を調査された。著作に、「資本と労働との調和」、「工場法要義」、「労働紹介」、「国営前の職業紹介事業」、「職業紹介事業の変遷」などがある。いずれも古典としての評価が高い。
 東京府中央工業労働紹介所は、創設当初は神田駅のガード下にあった。豊原翁は生来の大声であったが、それはガード下の騒音のせいかと早のみこみする者もあったそうである。内務省の高官が視察した際、「当所の建物の規模は日本一で、西は下関、東は青森にまでつながっている」と説明し、その高官を面食らわせたというエピソードが残っている。昭和22年、75歳で逝去された。

西の八浜徳三郎翁は、明治4年、岡山県の産。小学校中退後、商家の丁稚(でつち)奉公。養蚕試験場の伝習生を経て各地の伝習所勤務。改めて京都の同志社神学院を卒業後、キリスト教の伝道に従事。明治44年には牧師をやめ、東京で内務省の嘱託として細民調査に参加。その頃英国の職業紹介制度を知って、職業紹介事業への開眼となったといわれる。明治45年、財団法人大阪職業紹介所の創設に当たり、常任指導者に就任。大正8年、新設の大阪市立九条職業紹介所の所長を兼務。同10年には大阪市立中央職業紹介所長、兼ねて財団法人大阪職業紹介所長に任命された。著書に、「下層社会の研究」、「職業紹介所従事員執務の栞(しおり)」などがあり、名著といわれる。
 八浜翁の勤務は、常に木綿の着物に角帯、前垂れ姿であった。応対の物腰は柔らかく、「求職者を神のように思って扱われた」という。昭和26年、81歳で永眠された。

この2人の先覚者は、こよなく職業紹介事業を愛し、生涯をそれに捧げ抜かれた。共に外国の事情に詳しく、また得難い名著を残しておられる。後進の指導に情熱を注ぎ、幾多の人材を育てられた。このように共通点の多い2人であるが、事業経営の理念は対照的であった。八浜翁は弱者救済の人道的な運営を心がけ、豊原翁は産業労働者の需給調整機能の発揮を強調された。ともあれ、取り組む考え方に違いはあっても、東西の2大先達が日本初期の職業紹介事業の発展に寄与された功績は、はかり知れないものがあった。

職業紹介所従事員執務の栞

大正から昭和にかけて、職業紹介所の職員に愛用されたものに「職業紹介所従事員執務の栞(しおり)」がある。これは八浜徳三郎翁の作で、職業紹介所での受付、紹介、記録、外交、電話等の係ごとに、仕事の進め方や注意事項が載っている。大阪市立九條職業紹介所が新設された大正10年に、その所長となった八浜翁が、所員の心得書として作られたものである。自分の体験と理想を織りまぜて綴った作品といわれる。28ページの小冊子ながら、初心者にもよく分かるように書かれている。適当な参考書などなかった時代のこと、やがて大阪のみならず、全国の職業紹介所の職員の手引書となった。有料職業紹介業者も、それを手本に使ったそうである。例えば、受付係の項に次のような文(原文のまま)がある。

  • 一 受付係は親疎の別なく温顔を以て人に接し恭謙以て人を待ち、常に人をして春風駘蕩(たいとう)の裡(うち)にあるの思いを為さしむべし。

60年後の今日でも、そのまま役に立つようである。原文どおりでは読みにくいので、その一部を現代ふうに書き変えて紹介してみよう。当時の職業紹介の姿がしのばれる。
〈受付係〉

  • 一 来客があれば来意を尋ね、適宜の処置をとらねばならない。求職者と思えば、「ご求職でございますか」と聞く。求人者と見れば、「お雇(やとい)人がご入用でございますか」と尋ねる。来意がはっきりしないときは、「ご用事は」と問いかける。
  • 一 求職者に対しては、「お越しなさいませ。あちらに係の者がいます。この番号札をさしあげますから、あちらでしばらくお待ち下さいませ」と対応する。
  • 一 帰る人は温容で見送る。「お待たせして相すみません」、「ご苦労さまでした。またお越し下さいませ」などとあいさつをする。
〈紹介係〉
  • 一 求職者には顔色を柔らげ、言葉を慎しみ、懇切丁寧を旨とし、尊大な風(ふう)があってはいけない。
  • 一 求職者を紹介するときは、まず電話で求職者の事情を求人者に詳しく連絡をとるものとする。
  • 一 雇用契約の成立は、そう簡単なものではない。紹介が不調になったりして帰って来ても、それを非難せず、就職決定まで何回でも懇切に紹介すべきである。
  • 一 紹介の際に通信費(5銭)を予納させる規定となっているが、それを請求する場合の言葉の例は次のとおり。「当所は手数料はいりませんが、あなたの保証人に照会するため通信費が5銭いります。お持ち合わせがありますればお払い下さい」
〈記録係〉
  • 一 紹介台帳は紹介事務の基本で、永く保存すべきものである。そのためきれいな字で丁寧に書き、みだりに文字を訂正したり、抹消してはいけない。
  • 一 求人者と応接する一例として、「わざわざご足労を煩わして恐れ入ります。実はお宅のご希望をとくと伺っておきませんと、適当な者をご紹介できません。甚だ失礼ですが、ご使用の目的、年齢、勤務時間、賃金、食費等につき、詳しくお伺いしとうございます」などという。
  • 一 求人の申し込みがある場合、その賃金については、別に作ってある職種別の最低賃金表を参照して求人者と交渉するものとする。
 (注)当所の記録係は求人の申し込みも受理していた。
〈外交係〉
  • 一 雇主のところに出向いて調査するときは、調査票に雇主の所在地、職業のほか、道筋、目印を記載し調査に便ならしめる。
<電話係>
  • 一 電話では相手の人物、風采(さい)が分からない。ややもすれば言葉が粗暴に流れ、相手を怒らせることもある。常に言葉を慎しみ、どんな場合にも決して怒ってはならない。
  • 一 未紹介のため、求人者から督促があった場合には、次のように応答し、必ず主任者に報告するものとする。「はいはい、ご尤もでございます。お宅へは特に人を選んで差しあげようと思っていますので、ついつい遅くなって誠に相すみません。早く適当な者を見立ててご紹介いたしますから、今しばらくご猶予をお願いします」
職業紹介所職員の勤務と労苦

ここで大正初期の職業紹介所の、職員の勤務などを見てみたい。
 東京府職業紹介所(東京府社会事業協会立、大正9年創設)の勤務時間は、土曜も含めて午前8時より午後4時まで。日曜祭日は休み。休日や時間外の求人申し込みは、宿直の者が受ける。
 当所の来所者の接遇は、営利職業紹介事業のように丁重にせよとの方針であった。そこで求人求職を問わず、来所者全員にお茶を出すことになった。しかし利用者が多くなるとそこまで手が回らない。やむをえず各自で自由に飲める湯飲所を設けたという。リノリウム張りの床を保護するため、下駄(げた)ばきの入室を禁じた。そのため下足番を置いて下足札を渡し、草履(ぞうり)などにはきかえてもらったそうである。
 求人票や求職票は、当時の無料職業紹介所で使っていたものでは不十分ということで、当所独自のものが考案された。それは、英国の職業紹介所で使用されているものに、若干の修正を加えたものである。それらのカード類も、来所者が殺到すると、ゆっくり記入していられない。そんな時は、求人申し込みは求人者の名刺に、求職申し込みはメモ用紙にそれぞれ書きこみ、あとでひまをみてカードに転記したという。
 開設の当初は、採用が決まると求人者から50銭を徴収する方針であった。けれども求人者の中には納入を忘れたり、紹介された覚えがないと主張する者が出てくる。採用後すぐ退職する場合も起こる。50銭の徴収に、多くの経費と手間がかかりすぎ、この徴収制度はやがて有名無実となった。そして無料主義をうたった職業紹介法の施行で廃止された。
 開設時の職員数は8名ぐらい。求人が少なくて困るので、求人開拓のための「外勤班」を置いて活動させ、併せて職業紹介所のPRも行わせたものである。

大阪の市立職業紹介所の勤務時間は、午前7時から午後7時までの1日12時間。日雇労働紹介の窓口は、早朝の午前6時頃から開かれるのが普通であった。休日は、1日、15日の月2回で、その頃の商店などの休日の慣習に合わせたものである。
 大阪市九條職業紹介所は、2階建ての2階に開設(大正8年)された。1階は市立の簡易食堂であった。当時の公立の無料職業紹介所は、無料宿泊所、簡易食堂など、貧困者対策の施設と併設されることが多かったようである。1階の専用入口には、のれんが掛けてあった。設立当初は、職員6名程度の陣容で、全員が前垂(まえた)れがけの執務であった。八浜徳三郎所長も粗末な木綿の着物に、角帯、前垂れ姿、商人のような物腰で応接した。来所者は、たとえ来所目的が満たされなくても、文字どおり、前垂れがけの精神による親切な接遇に満足して帰ったという。
 求人の申し込みが乏しいので、職員はひまを見つけて、求人開拓に出て行った。ズックのかばんに求職票の副本を入れ、市内の目ぼしい事業所を訪ね回ったそうである。

その頃の職業紹介所の職員の苦労談を、古老の話から引いて、紹介してみる。
 誕生後まもない公立職業紹介所への世間の理解は低調であった。どうしても、営利の紹介業者と混同されがちである。職業紹介所に勤めているといえば、ああ口入屋か桂庵(けいあん)かと、軽く見られたという。子供たちも学校で何か事があると、口入屋の子、桂庵の子と、はやされたといわれる。また、中学校(旧制)に通っている息子が先生から、「お前今日帰ったらお父さんにそういって、先生の家で女中が要るから、1人早くよこせ」といわれ、泣いて帰ってきたという話もある。子供心にも、皆の前で父親の仕事をさげすまれたように思ったからであろう。お役人といわれ、地位が高かったはずの公務員が、そんなふうに見られたりするのは、やりきれないことであったに違いない。

日雇労働者の紹介業務は、早朝出勤と取扱いの難しさで、いつの世でも苦労の多いことである。
 当時の労働紹介所では、賃金の立替払いも行っていた。その頃、建設業などで幾日か継続して働く日雇労働者への賃金支払いは、必ずしも日払いとは限っていなかった。その日暮らしの日雇労働者は日払いでないと生活が困る。その対策に労働紹介所は、市役所から資金の前渡しを受け、賃金の立替払いを毎日行ったものである。就労を確認し、賃金の支払いを終えると、帰りは遅くなる。毎朝星をいただいて出勤し、夜もまた星を仰いでの帰宅。そのうえ、日曜もあまり休めない。家では子供の寝顔を見るばかりで、愛らしい笑顔に接することもできないと、歎く職員も多かったという。

職業紹介所を訪れる求職者は、千差万別である。中には無理難題を持ち出して暴言を吐き、大声で怒号する者もいる。酒を飲んできて、暴れ回ったりもする。始末に困って、警察の手をわずらわすこともたびたびである。こんな日が続くと、ほとほと仕事がいやになり、何度か辞めようと思ったことがあるそうだ。けれども、長い失業のため、心がすさむのは無理からぬこと。すべての求職者が乱暴者ばかりとは限らず、彼らの辛い心情は同情にたえない。世のため、社会のために働こうと覚悟した者が、これではいけない。辛抱も修養も足りないと反省に努めたそうである。
 朝から晩まで面接していても、求職者のすべてに満足のいく紹介は出来ない。気落ちして帰る後姿を見るにつけ、求人の乏しさが悲しく、悩みは増すばかり。こうした苦悩は、就労あっ旋の実務に携わった者でなければ味わえないだろうとの、古老の述懐が残っている。

奉仕と犠牲の精神。それが公立職業紹介所創業期の基本理念であった。このような職員の労苦と努力に支えられて、それからの職業紹介事業が大きく発展していくのである。

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