職業安定行政史

第5章 昭和時代(2)(戦後占領期)

職業安定行政についての連合国軍司令部の考え

占領下の職業安定行政は、たえずGHQからの指示を受け、時には直ちに同意出来ないような意見が提起されることもないではなかった。しかしそれらの指示や意見の多くは、新しい時代に即して脱皮すべき職業安定行政にとり、有益なものであった。あの混とんの時代にあれだけスピーディに行政の改善が進んだのは、職業安定機関の熱心な努力もさることながら、バックに強力なイニシアティブを持つGHQが存在していたからである。そのGHQの労働課人力班のマックボイ氏(占領の初期は職業紹介業務の担当官で昭和25年から人力班長)が、占領終了後に占領下の日本の職業安定行政を回顧して「日本における民主的職業行政の紹介」という論文を発表している。膨大な報告書であるが、当時のGHQの考えを知ることができるので、その一部を抜粋紹介してみる。

  • ○人力は日本の最大の財産である。あらゆる生産要素の中で人力だけが豊富である。人力は同時に日本の重荷でもある。あまりにも小さな領土で、あまりにもたくさんの人口を養わねばならぬからである。
  • ○日本はわずか4つの島で敗戦から立ち上った。その後4年間には550万人の帰国者と500万人の人口の自然増とを加えて、約8,300万人の入口を養う問題に直面していた。日本の人口密度は、1950年には1平方マイル当たり600人であった。米国カリフォルニア州は1平方マイル当たり44人にすぎない。しかも日本の領土は大半が山地で、6分の1しか耕作できない。
  • ○日本にとって増加する人口を維持する手段は、効果的に指導された労働者の技術である。輸入原材料に労働力を附加した価値で、完成品または半完成品としての輸出が日本の主要な所得源である。
  • ○日本の人々の間に苦悩と不安の念が拡がった。労働者のデモは日常茶飯事となった。労働者は、職と賃上げと食物を要求し、インフレ抑制の政策を求めた。1946年の春には米国からの穀物の緊急輸入が、かろうじて多数の人々の餓死をくいとめた。
  • ○占領軍当局は雇用の分野において二重の問題に直面した。その1は、何百万人の労働者に対しいかに有効で生産的な職業を見つけてやるか。その2は、いかにして旧式な抑圧的な雇用慣習を近代的民主的なものに変えるかであった。
  • ○これまでの日本の雇用組織は、労働ボス((注)労働者供給事業をいう)、労務者周旋人((注)委託募集従事者をいう)、雇主の温情主義、従弟制度等を含んでいた。これらの制度の大きな特色は、人間の労働力の売り買いを商売とする人達の存在である。
  • ○日本における雇用慣行の徹底的な変革は、敗戦と占領政策がなかったならばかなり遅れたに違いない。GHQ労働課により立案された雇用の面での新政策は、次のようなものであった。
  • (1) 従来の職業紹介制度と職業指導制度を完全に解体して、使用者と労働者に対し純枠に奉仕するための制度を作る。
  • (2) 労働ボスや口入れ屋等の悪らつな慣習に代わり、労働者に就職の機会を与え雇用を保証するための建設的手段を樹立する。
  • (3) 失業保険、公共事業、失業対策事業等の失業対策を行う。
  • (4) 経済の復興と安定の一要素として、労働力を十分に利用する。
  • ○日本の経済復興と民主的改革を進めるには、職業紹介制度を2つの基本目的にそって改善する必要があった。第1は労働者への支配、強制、さく取の排除、第2は効果的な職業紹介制度の設置である。労働諮問委員会(米国)の報告では、第2の要素に重点が置かれた。
  • ○理想的な職業紹介制度の目的は、(1)人を求めている職業と職業を求めている人を結びつけるために要する時間、労力、費用の浪費を少なくすること、(2)労働の移動が地域的にまた職種的に拡大するように導くこと、(3)利用しやすい労働市場情報を集め、組織化して作ること、(4)特別に助力の必要な人々、とくに青少年、身体障害者、復員者のために特別な便宜を与えること、(以下略)等にある。
  • ○職業紹介機関の改名には、次の3つの概念のうち少なくとも2つを含むべきであると主張した。
    (1)業務の公共的性格、(2)サービス、(3)経済危機に対する保障。あまりよい案が出ないので、Public Employment Seurity Office(公共職業安定所)というのを提案した。日本の役人達は不承不承で承知した。
  • ○職業安定法は、職業紹介に関する新しい原理の法的骨組であった。この法律は、日本政府との間で合意が得られるまで、何百時間にも及ぶ議論をした。他国のこの種の法律に比べ最も包括的なものの一つである。英米の先例やILOで承認された基準も取り入れた。
  • ○日本の行政のやり方には基本的な差異があった。安定所の統一的な義務運営については、西欧の能率主義と東洋の身分関係重視主義とを調和させる必要があった。
  • ○西欧式の行政原理が焼き直されて採り入れられた。職業安定局は日本で最初に行政手引を導入した官庁であろう。日付順に綴じた通達で処理するのがそれまでの例であった。行政手引は米国のそれをモデルとし、主題別の符号により分類された。こんなやり方は、日本人にとっては奇妙なものであった。しかしやがて職員は、貴重な仕事の用具と考えるようになった。
  • ○日本の職員訓練計画は、米国でもそうであるように、形式的な講義と紙の上での訓練材料に頼りすぎていた。新しい訓練計画では、安定所長達は東京や埼玉の実験安定所で2週間の訓練を受けた。
  • ○職業紹介業務について、基本的な原理を推し進めるための手段として、次のことが必要であった。
  • (1) 職業安定機関の幹部にサービスという考え方を滲透させる。
  • (2) 職員訓練計画において、職業紹介の基本原理を強調する。
  • (3) 職業安定機関の職員が外へ出て、雇用主や関係団体等を訪ね職業紹介業務を売り込む。
  • (4) 安定所の職員を県や労働省へ転勤させ土気を高める。婦人の職員の昇進を男子と同等に考える。(以下略)
  • ○職業紹介の機能は、行政についての次のようながん固な因習によって妨げられた。
  • (1) 職員が朝来てやるべきことは、上司の机まで出むいてあいさつすることである。このような状態では、職員が役所の管理改善について意見を述べることはほとんど不可能であった。
  • (2) 職員を上級の地位に任命する時に、能力よりも社会的身分とか形式的な学歴――学閥とかに重点を置いている。地方の安定所長が、県または中央官庁の役職につくことはめったにないことであった。
  • (3) 個々の職員に対するはっきりした責任分担がされていない。
  • ○職業紹介の改善計画については、関係者の間にはさして大きな論議はなかった。それに対する抵抗は、主として惰性と伝統的な方法を変更することに対する不本意に基づくものであった。
  • ○安定所は、失業保険や日雇労働者への加配米支給などの仕事に追われ、本来の就職あっ旋を忘れている傾向がある。安定所が所期の活動を行っているかどうかを調べるために、5つの目標が設定された。これはまず埼玉県で実施され、あとで全国に拡大された。
  • ○職業紹介の方式に、「選抜紹介」(呼び出し紹介ともいう)が採り入れられた。昭和26年の現地調査では、この新方式が4割を占めていた。労働者、雇用主ともに、以前よりも安定所のサービスがよくなったと受けとめている。
  • ○占領軍当局は、労働ボス(労働者供給業者)制度が、たくみに戦後の情勢に適合して戦前よりも一層盛んに動いているのに気がついた。当時労働ボス制度が悪いと考えた日本人は、ほとんどいなかった。労働ボスへの最初の攻撃は、ボスの活動を違法とする法律を制定するよう働きかけることであった。この目的のための2つの基本法、職業安定法と労働基準法がともに昭和22年に制定された。
  • ○労働ボス排除の設置が効果を表すに至ると、ボスによって提供されてきた機能に代わる適切な措置が必要になった。すなわち日雇労働者についての供給ばかりでなく、失業及び疾病の危険からの保護である。そのため100の労働安定所が増設された。毎日の紹介を行うほか、日雇労働者用労務加配米の業務、日雇失業保険、公共事業及び失業対策事業への就労を取り扱った。こうして、従来ボスの支配下にあった日雇労働者が安定所を利用するようになった。
  • ○司令部の政策を日本人に受諸させるために用いられた方法は、初めの頃は、直接命令、役人への圧力、労働関係からの追放、訓戒等であった。占領の第3年目頃からは強制は最後の手段とし、徐々に指導、誘導、訓練、鼓舞に改めた。新しい技術は、共同計画立案、合同現地出張、国際組織との連けいなどで進めた。占領の後期には、親切な助言や指導に変えていった。それにつれて相互の理解はますます発展した。

以上は報告書の一部を抜枠しての簡単な要約にすぎない。それでも、日本の政府当局をリードして職業安定行政の改革を推進したGHQの考え方の一端がよくうかがわれるところである。

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