職業安定行政史

第5章 昭和時代(2)(戦後占領期)

職業安定行政の体制と失業対策

職業安定三法の制定と行政組織の整備

新しい時代には新しい行政が必要であり、新しい行政には新しい理念がなくてはならない。昭和22年11月30日、これまでの職業紹介法を廃止して、新しく職業安定法が制定された。その第1条には、各人の能力に応じて適職に就く機会を与え、国民の職業生活の安定と経済の興隆に寄与することを目的とする旨を宣言している。さらに第2条では職業選択の自由を、第3条では均等待遇の原則を明示した。職業紹介や職業指導の業務については、基本的な基準が設けられた。職業安定機関以外の者が行う職業紹介、労働者募集及び労働者供給事業の規制は、これまで省令に基づいて行われてきたが、これからは職業安定法で行われることになった。かつての職業紹介法とは内容を一新し、新しい時代の職業安定機関の導標が明確にされたわけである。
 同年12月1日には、失業保険法が公布される。戦前から失業保険制度の創設については、失業情勢が緊迫するたびに議論があった。しかし法律制定までには至らず、戦後ようやく実現を見たものである。失業保険金の支給で失業者の生活の安定を図ろうとする、画期的な制度であった。
 昭和24年5月20日には、緊急失業対策法が制定、施行された。この法の目的は、多数の失業者を失業対策事業と公共事業に吸収しようというものである。失業対策事業は、大正14年に始められた失業救済事業の法制化による復活であった。事業としては、多くの労働力を使用出来る作業を選ぶ。就労者は、公共職業安定所の紹介する失業者とする。就労者の賃金は、その地方の同一職種に従事する者に支払われるものよりも低額とする。などの原則は、かつての失業救済事業とあまり変わらなかった。公共事業には、失業者の吸収率が新設された。
 これらの法律は、“職安三法”と呼ばれ、戦後の職業安定行政の支柱となったものである。いずれもが、おびただしい失業者の発生と滞溜に対処しての立法であった。廃墟、欠乏、不況、混乱、不安、インフレの中で苦しむ国民の職業生活の安定に寄与した役割は、はかり知れないものがあった。この三法の成立に、GHQの強い指示、指導があったのは、いうまでもない。

法体系の確立にあわせ、行政組織の整備も急がれた。昭和22年9月1日、厚生省から分かれて労働省が新設された。その労働省に職業安定局が置かれた。都道府県には、職業安定課と失業保険課(当初は失業保険徴収課)が設けられた。第一線では、戦時中の国民勤労動員署が、昭和20年10月に勤労署が改められた。翌21年3月には、進駐軍労務の充足のため日雇勤労署が開設された。さらに昭和22年4月8日、勤労署は公共職業安定所と改称される。改名には日本政府とGHQとの間でいろいろな論議があった。結局はGHQの強い示唆もあって、そのように定まった。この名称はPublic Employment Security Offceを直訳したものである。関係者はその頃その頭文字をとって、よく“ペソ”といったものである。こうして、中央地方を通じての新しい職業安定行政の組織が確立した。

職業安定行政手引と監察制度

職安三法が制定され、行政組織が整備されても、運営に当たる職員の活動が新しい時代に対応出来ないと成果は上がらない。それにはまず、徴用とか動員とか割り当てとかの強権的な戦時統制に馴れきった業務運営を、民主的なサービス第一に改めることが急がれた。そして現場の職員の1人ひとりにまで、新しい行政のあり方と、その運営技術を浸透させる必要があった。そのために導入されたのが、行政手引と監察の制度である。

手引は、職業安定行政のすべての分野について、運営の方針、手続き、様式、留意事項などをまとめたものである。事項ごとに業務の流れに従って番号順に編集され、加除式になっていた。初心者にも分かりやすいように記述し、全国統一的な行政水準を確保するねらいがこめられていた。
 この手引は、その頃米国で使用されていた職業紹介業務のマニュアル(manual)がモデルである。職業紹介業務だけでなく、職業安定行政の全分野にわたる手引の作成が、GHQからの厳命であった。ほぼ2年がかりで完成したのは、9編5分冊の3,000ページを越える膨大なものであった。それは、昭和23年12月から、訓令によって実施された。従来例規として通達されたような基本事項は、爾後は手引の改正という形で指示されることになった。手引を徹底するため、都道府県からは係長以上、公共職業安定所からは課長以上の全員を集め、ブロックごとに3日間の研修が行われた。

監察制度が発足したのは、昭和22年である。職業安定局に監察室が新設され、監察員が任命された。職業安定行政の第一線が、定められた政策や基準に従ってどのように運営されているかを、査察検明する制度である。関係職員の非違や関係事業所を監査するしくみは、他の行政にもあった。しかし、サービス行政の運営の実態をみずからの手で明らかにする制度は、他の行政に例のない新しい試みであった。これも米国の例が、GHQの強い指示により採り入れられたものである。当初の監察は、主として手引の実施状況に重点が置かれた。
 昭和23年に、監察員は監察官と改められ、都道府県にも配置されることとなって、監察制度は整った。失業保険業務では昭和23年に会計監査員が、失業対策業務では昭和25年に事業監察員が置かれた。そして昭和31年にはそれら両者についての観察官規程が制定され、名称も監察官に改められた。失業保険と失業対策の監察官は、行政内部の観察業務のほかに、関係事業所を監査する権限が与えられている。
 手引と監察、この両制度は、米国の制度の直輸入で、他の行政には見られない新機軸のものであった。導入したタイミングもよく、新しく大きく伸展しようとする職業安定行政を内部から支える大きな支柱ともいえた。戦後の全国統一的な行政運営の基盤は、これらの制度によって築き上げられたといってもよいであろう。

ドッジプランと失業者の多発

廃墟と欠乏のその頃の日本には、さまざまな出来事があった。昭和20年11月、財閥解体指令。同年12月、農地改革指令。21年2月、預金封鎖、新円切換。同年5月、メーデー復活、食糧メーデー挙行、極東国際軍事裁判開延。22年3月、農地改革による第1回農地買収実施。同年4月、義務教育6・3制実施。同年5月、新憲法施行。23年11月、極東国際軍事裁判終結。同年12月、経済安定9原則の発表。同月、改正民法公布、「家」制度廃止。24年3月、ドッジプラン発表。同年5月以降、大規模な行政整理の断行。同年8月、シャープ税制改革勧告案発表。同年、平事件、下山事件、三鷹事件、松川事件など続発。25年6月、朝鮮動乱勃発。26年9月、対日講和条約及び日米安保条約調印。27年4月、占領終結、日本独立。などがそうである。

ドッジプランというのは、来日したドッジ米国公使の提言である。破局に頻した日本の経済にメスを入れてインフレを急速に終わらせ、経済の再建をめざす大手術の計画であった。このドッジ公使は、第2次大戦後の敗戦国西ドイツの通貨改革の立案者として著名であった。ドッジプランの内容は、GHQから指示されていた経済9原則の早急な具体化である。予算収支の均衡、徴税の強化、金融の制限、賃金や物価の抑制、輸出の振興、生産の拡大、食糧供出の効率化など、当時の緊要な懸案事項を、一挙に強行することであった。政府は超均衡予算を編成し、歳出は徹底的に削減された。20万人を超える政府機関職員の、大規模な行政整理が行われる。財政や金融の厳しい引締めから、民間では金づまりによる倒産、企業整備、滞貸が激増し、離職者が続発した。終戦後は、敗戦のショックや生活の窮迫から定職に就かず、国民の多くが潜在的な失業状態にあったものである。それが主食の配給の円滑化、闇経済の取締り強化などの影響を受けて顕在化し、失業者群に加わり失業者は激増する。
 経済再建策の強行によってインフレは次第におさまったものの、それに代わって、デフレ下の深刻な不況が訪れた。それでも、昭和25年に発生した朝鮮動乱は特需景気を呼び、日本の経済は急速に拡大していった。27年には講和条約が発効し、7年間にわたる連合国軍の占領が終わった。それに伴う連合国軍の規模縮小で、駐留軍労働者の大量解雇が相次ぐ。経営不振の炭鉱では離職者が多発する。28年には中断していた中国やソ連からの抑留日本人の引揚げが再開される。その引揚者の就職もまた容易ではない。
 職業安定機関は、総力をあげて失業者の対策に取り組んだ。新しく発足した失業保険制度も活用された。積極的に求人開拓を行ったが、就職口の確保は困難である。就職できないままに滞留する失業者は急増した。それに対しては、緊急失業対策法に基づいて、当面、失業対策事業や公共事業への吸収に依存せざるをえない情勢が続いた。

失業対策事業をめぐる動き

公共職業安定所に求職しても定職を得られない失業者は、日雇にでも就労して生計を立てざるを得ない。そうした失業者は、日雇労働の窓口に殺到する。緊急失業対策法公布時の昭和24年5月には、登録日雇労働者は10万4,000人であった。1年後の5月には41万人に急増した。終戦直後の日雇労働紹介の主要業務は、駐留軍労働者の紹介であった。それがこのような情勢下で、日雇労働者を主体とする失業対策事業就労者中心の紹介業務に変わっていった。
 昭和24年度の第2、4半期から失業対策事業は発足した。同事業に就労できる者の要件は、昭和25年1月に明示された。発足の当初は、「公共職業安定所の紹介する失業者に限るものとし、現に定職がなく家計の維持を失業対策事業の就労による収入に依存せざるを得ない者」で、これに適合すればおおむね就労適格者となり得た。しかし日雇労働者の激増にともない、就労日数の調整を図るため、就労者の適格要件をさらに明確にする必要に迫られた。新しい適格要件は、(1)主たる家計の担当者であること、(2)失業者であること、(3)失業対策事業以外に就職あっ旋した場合に正当な理由なく拒否した者でないこと、などであった。
 しかし失業対策事業就労の枠が足りないため、希望してもなかなか失業対策事業に入れてもらえない。たとえ入っても就労日数が少ない。そのため失業者の失業対策事業への流入、完全就労などの要求が激化した。失業者団体による「職よこせ闘争」がそれであった。職業安定機関や地方公共団体に対する集団デモ、強制陳情、座り込み、ハンスト、関係者への暴行などが頻発した。
 当初の失業対策事業への紹介方式は、日々の先着順紹介であった。しかし早朝から就労の順番をとるなど問題が多いので、翌25年から輪番紹介が採用され、就労機会の均等化が図られた。昭和26年からは、3日ないし4日の継続紹介に変わった。就労者の作業能率の向上と事務の簡素化がそのねらいであった。

その頃の失業対策事業をめぐる特異な事件や事例を紹介してみよう。

(昭和25年)
  • ●メーデー参加闘争――失対就労者が有給によるメーデー参加を要求。各地の市町村や職業安定機関に闘争を起こした。
  • ●輪番紹介反対闘争――輪番紹介の撤回を要求。就労拒否、紹介業務妨害、関係職員への暴行脅迫が続いた。
  • ●日雇労働者の地方議会への進出――4月、地方議会選挙において、日雇労働者がその組合を母体として立候補、東京都では5人が当選した。この動きは全国に広がり、その後各地で日雇労働者が地方議会に進出した。
  • ●写真撮影反対闘争――失業対策事業紹介適格者手帳に、写真を貼付することを拒否する闘争が各地で発生し、激化した。
  • ●越年闘争――越年資金を地方公共団体に要求。各地で庁舎乱入、投石による職員や警官の負傷が多発した。とくに東京都においては、都庁内に約1,000人が乱入し、また小石、レンガ等を投じて職員、警官32人が負傷する事件が発生した。
(昭和26年)
  • ●長野地方裁判所の警官殉職事件――長野市役所との集団交渉で発生した公安条例違反、公務執行妨害の公判(1月19日)に当たり、日雇労働者が警官300人と激突した。警官の殉職1人、重軽傷数人。
  • ●立川公共職業安定所(東京都)紹介方式反対闘争――7月、輪番紹介から継続紹介への紹介方式改正に反対し700人の労働者による4日間の紹介妨害、庁舎侵入、職員殴打、窓ガラス破損(150枚)等があった。毎日500人前後の警官が出動し鎮圧した。
  • ●布施公共職業安定所八尾分室(大阪府)職員殺害事件――8月、失対適格者手帳の回収に不満の労働者が、八尾分室の職員と口論し、その日の夕刻庁舎に侵入、当該職員を殺害した。
  • ●松阪公共職業安定所(三重県)占拠事件――12月、完全就労を要求する日雇労働者270人が2日間庁舎を占拠、武装警官300人と対峙した。2階に立てこもり、瓦、ガラスを投げ、警官は2人負傷。労働者は全員検挙された。

昭和26年中の全国の日雇労働闘争は8,508件、参加人員は延べ約40万人にのぼった。そして、検挙は95件、被検挙者は687人を数えた。この頃から失業対策事業就労者を中心とする組織は次第に強大となっていった。要求の内容も就労問題に止まらず、賃上げ、夏季年末の手当獲得その他に拡大された。その結果として、日雇労働闘争は全国的に激しく広がっていった。

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