第5章 昭和時代(2)(戦後占領期)
職業安定行政の展開
雇用状態調査・職務分析
失業者が多発し滞留すれば、彼らを就職させるための求人集めが職業安定機関の重要業務となる。そうした事情下で、昭和23年から「雇用状態調査」が実施された。これは各事業所の雇用の現状、異動状況、増員計画などを把握するものである。公共職業安定所の職員が、次のように事業所を定期訪問して調査を行った。
事業所の規模 | 訪問回数 |
500人以上 | 毎月1回 |
100人以上500人未満 | 3月に1回 |
15人以上100人未満 | 4月に1回 |
この調査は、定期報告により全国集計され、当時としては日本の雇用情勢を知る貴重な資料となった。それと同時にその事業所の雇用動向をつかみ、併せて行う求人開拓の面で好成績をあげた。昭和26年度の雇用主訪問の実績は、次のとおりである。
訪問雇用主の実数 | 755,000所 |
雇用主面接回数 | 843,000回 |
雇用主訪問により受理した求人数 | |
一般労働者 | 576,000人 |
日雇労働者(延) | 1,408,000人 |
自転車がまだ貴重品だったその頃のことである。公共職業安定所の職員が足を棒にして歩き回っての求人開拓は、失業者のあっ旋に大きく貢献した。
この時代の職業安定行政の調査研究業務として特筆すべきものに、職務分析、職業辞典がある。
職務分析は、職務についての作業の内容、困難さ、責任、知識、所要性能などを明らかにしようとするものである。GHQの示唆に基づき、米国労働省の資料を研究して昭和23年から始められた。
この職務分析には、当初は主として部外の事業所の職員があてられた。しかし、昭和26年度からは職業安定機関の職員で実施されることになる。職務分析の結果は、産業別の職務解説書としてとりまとめ、刊行された。その第1号は昭和23年度に発行された「電球製造業」であった。
昭和27年3月までに製造業、運輸通信業のうち事業所規模の大きいものについては、大略の分析を終えた。調査対象となった産業は256、事業所は500、職務数は約8,000である。それまでに刊行された職務解説書は127冊で、解説された職務は2,844(最終的には173冊、8,470職務)に上った。
職務分析の結果は、職業安定機関の求人受理、職業相談、職業指導、職員の職務知識の向上等に活用される。企業の募集、採用、配置、訓練などにも利用出来る。さらに、職務分析により得た資料は、職業安定行政で使われる標準職業名や職業分類の作成に寄与した。また職務分析の資料等を基にして、昭和26年より「職業辞典」の編さんが始まった。3年の日時をかけ昭和28年に、我が国最初の職業辞典が完成した。それは、第1部(職業分類表)と第2部(職業名、職務名の解説表)とに分かれ、約3万4,000の職業名が集録された。この職業辞典を利用しやすくするため、約4,800の代表職業名に十分な説明を加えて、昭和32年に「職業小辞典」が刊行された。
職業安定業務の進展
たとえ求人と求職がアンバランスでも、双方にとって最もよいあっ旋に努めるのが適格紹介である。職業紹介は長い間、「即時紹介」方式で進められてきた。この方式は、求職者と面接した段階で適当な求人があれば、その場ですぐに紹介するというやり方である。昭和25年、「選抜紹介」方式がとり入れられて、即時紹介と併用されることになった。選抜紹介の方式では、求職申し込みを受けてもその場で直ちに紹介は行わない。後刻、求職を求人と照合して適職があれば葉書で呼び出し、または指定した再来日や失業保険の認定日の出頭時に紹介を行う。選抜は、求職票の中からまず求人に適格な職務集団を選定する。さらにその中から具体的な選抜基準に合致する求職者を、求人1人につき2、3人を選んで紹介することになる。
選抜紹介は、GHQの示唆により、かなりの実験を重ねた上で実施された。そのねらいは、求職者の就職率や求人の充足率の向上を図るとともに、適格紹介を進めるためであった。
未充足の求人票や未就職の求職票を持ちよってカードの交換会が、活発に行われるようになった。求人と求職の結合促進が目的である。特に、京浜、京阪神、中京の大労働市場地域では、週1回など定期的に開かれていた。
昭和24年からは、巡回職業相談所が開設された。公共職業安定所の利用が困難な交通不便の地を、定期的に職員が巡回した。巡回ペソと愛称され、職業相談や失業保険の認定給付が特に好評であった。
海外からの引揚者の職業紹介も活発であった。上陸地の舞鶴港(京都府)には、引揚船が入港のつど各都道府県から職業安定行政の職員が派遣された。舞鶴に設けられた臨時職業相談所では、各都道府県からの派遣職員が当面の職業相談を行った。引揚先では母国の事情にうとい今浦島のような引揚者の職業対策に、職業安定機関あげての献身的なあっ旋努力が続けられた。
新規学校卒業者の就職あっ旋は、業務教育修了の中学卒業者を中心に進められた。後年、金の卵とまでいわれた彼らであるが、当時の求人量は絶対的に不足していた。1人でも多くの求人を集めるのが、卒業期を迎えた職業安定機関の重要業務であった。昭和24年の職業安定法の一部改正で、学生、生徒の就職を円滑にするため、公共職業安定所と学校との間の協力体制を強めることとなった。これにより公共職業安定所の業務の一部を学校に分担させることが出来るようになった。そして学校に対して情報の提供や必要な助言援助を与えるよう努めることとなった。これらの措置で、職業安定機関と中学校との協力体制は一層強化され、中学卒業者の紹介業務が一段と進展した。その頃の中学卒業者の職業紹介の状況は、次のとおりである(この数には、公共職業安定所の業務の一部を分担する中学校の取扱数を含む)。
卒業年 | 求職申込件数 (千件) | 求人数 (千人) | 就職者数 (千人) |
昭和25年 | 337 | 194 | 152 |
昭和26年 | 398 | 324 | 256 |
昭和27年 | 415 | 387 | 255 |
昭和25年には、「新規学卒者就職促進強調運動」が実施された。また地域間における需給のアンバランスの是正を図るため、昭和23年から毎年全国的に、またはブロック別に、需給調整会議が開かれた。
昭和23年にモデル安定所が誕生した。公共職業安定所の業務運営の効率を高める実験や、全国の職業安定機関の職員の研修を行う場である。モデルペソと呼ばれ、その第1号は神田橋公共職業安定所(東京都)であった。GHQからは英国人のベテラン係官が常駐し、職業紹介業務を中心として指導に当たった。これはその年、GHQ労働課の人力班の全員で飯田橋公共職業安定所の監察を行った結果から、勧奨されて実現したものである。次いで、埼玉県がモデル県に、同県の浦和、川口両安定所がモデルペソに指定された。
その頃の埼玉県での実験に、「5原則の実験」というのがある。それは、①公共職業安定所の周知宣伝活動、②求職者の公共職業安定所の利用、③求人者の公共職業安定所の利用、④求人の充足、⑤求職者の就職、の5項目の状況を統計的に測定する。これによって公共職業安定所の業務活動の良否を判断し、それを反省材料に機能の向上を図ろうとする実験であった。この実験結果は、全国の公共職業安定所で業務推進のための努力目標の設定に活用された。そして雇用主との接触や職業紹介業務の進展に効果をあげた。
身体障害者の職業対策も、この時期に大きく前進した。それまでの日本では、戦争による傷痍軍人が障害者対策の主体となっていた。しかし戦後は一般の障害者も含めての施策が進められた。
昭和23年9月、ヘレン・ケラー女史が日本を訪れた機会に、初めての身体障害者雇用促進週刊が実施された。女史は、口、目、耳が全く不自由で、三重苦の聖女と呼ばれた人である。このキャンペーンは、障害者雇用対策の重要性を社会に訴え、障害者の雇用促進を図るのがねらいであった。キャンペーンは、その後職業安定行政の年中行事として長く続けられている。
昭和27年の閣議決定で、労働省に身体障害者雇用促進協議会が設置された。また、新しく定められた身体障害者職業援護対策要綱に基づいて、公共職業安定所では就職を希望する身体障害者の任意登録が始まった。
新しい時代の新しい行政運営には、広報活動の充実が必要である。まず労働省職業安定局、都道府県、公共職業安定所を通じて、広報担当者が置かれた。職業安定行政の広報誌としては、昭和21年11月に「勤労通信」(月1回発行)が刊行された。その名称は、翌年6月には「職業通信」、さらに昭和24年6月には「労働市場弘報」と改められた。その翌年2月からは、「職業安定広報」(月1回発行)と変えて続刊された。職業安定広報の当初の刊行部数は2,000部で、職員の教養、国民への行政広報に主眼が置かれた。その後職業安定広報は、昭和38年1月から3回の旬報となり、やがて職業安定機関の職員への徹底を図るため、刊行部数は約2万部となっている。
職業安定行政の総合的なキャンペーンとしては、昭和23年の「職業安定週間」がその始まりである。これは、職業安定法及び失業保険法の制定1周年を記念してのものであった。戦時労務統制から脱皮した新しい職業安定行政への理解と支持を深める上で、大きな効果をあげた。翌24年からは、旬間または月間の運動として、継続実施された。
港湾労働者の紹介業務についても、この時期に大きな改変があった。戦時中、港湾運送事業は1港1店社として統制されていた。それが昭和24年、GHQよりのコンファレンスメモにより、神戸船舶荷役会社に対し解体の指令が出た。さらに昭和25年には、全国主要港湾の荷役会社についても解散命令が発せられた。解体後の港湾には群小の港運業者が発生し、港湾労働面で弊害の起こることが憂慮された。その対策として、港湾では労働者供給事業の禁止を徹底し、かつ日雇港湾労働者の紹介を公共職業安定所で行うことが、併せて指示された。そこで日雇港湾労働者の登録や紹介の業務を神戸港で実験し、その結果を他の5大港に及ぼすことになった。それまで日雇港湾労働者の紹介には消極的であった職業安定機関は、積極的な姿勢でその業務に取り組むことになったわけである。
職業に就くについて特別の指導を加えることを必要とする者には、職業指導を行わなければならないと、職業安定法に規定されている。職業紹介と表裏の関係にあるその職業指導業務も大きく飛躍した。職業指導担当職員の講習会が、昭和26年から実施された。その翌年には第1回の職業指導研究発表全国大会が開催された。
また職業安定法は、職業指導を受ける者に対し、必要があるときは適性検査を行うことができる旨を規定している。
職業指導の実施に当たっては、職業の適性検査が重要な地位を占める。適性検査については、GHQから提供された米国労働省作成の一般職業適性検査を参考として、研究が始められた。昭和25年に至って、中学3年生を対象とした労働省編職業適性検査が公表された。この検査は、11の筆紙検査と2種類の器具により行う4種の検査とをあわせて15の検査から成っている。それらの検査で、知能、言語能力、算数能力、書記的知覚など10性能が検出される。検査の結果から、所定の職務について、適不適の判定が出来る仕組みであった。その後、さらに検討が加えられて、昭和27年には改定版が出来上がった。この職業適性検査は、もっぱら中学校や高等学校における職業指導用に使われた。昭和30年には、学校の課程を修了した一般の者を対象とする一般職業適性検査が完成された。これは、職業安定機関の指導を受けて、事業所における従業員の適職配置等に活用された。また、昭和27年には、労働省編職業指導用知能検査が発表された。これは、昭和18年に作成、公表されていたのを改定したものである。小学校6年から中学校3年までの者に適用することができた。
労働者供給事業等の規制
国以外の者が行う職業紹介事業、労働者募集、労働者供給事業は、職業安定法に基づいて厳しい規制を受けることになった。いずれも戦前には、許可さえ受ければかなり自由に行うことが出来たものである。日本の民主化をかかげたGHQの占領政策では、労働の民主化が重点課題の一つであった。健全な労働組合の育成と非民主的な労働慣行の廃絶が、その主要な柱となっていた。その結果、中間さく取や強制労働のおそれのある制度の禁止措置が、厳しく行われることになった。手数料をとっての職業紹介、周旋人を使っての労働者の募集、封建的な身分関係を前提とする労働者の供給。これらは、労働の民主化を阻むものとして、禁止かまたはそれに近い措置がとられることになったわけである。
労働者供給事業は、職業安定法に基づいて、労働組合によるものを除きすべて禁止となった。親分子分関係、雇用関係等何らかの支配従属関係にある労働者を供給する事業を営むのが、労働者供給事業である。それは、住々にして労働の中間さく取や強制労働を伴いやすい。職業紹介サービスの民主化と労働者供給事業の排除は、GHQの指示もあり、占領初期の職業安定行政の最重点課題の一つとなっていた。供給契約による労働者の供給の取締りを強化すると、請負に変えて脱法する傾向が生まれる。そこでたとえ契約が請負の形式であっても労働力を主体とする作業は、労働者供給事業として禁止せよとのGHQの厳命が出た。全産業の請負事業を、職業安定法の解釈だけで規制するには無理がある。しかし、日本進駐以来一貫して労働者供給事業をレイバーボスといって嫌悪してきたGHQは、職業安定法でそれを規制出来るとして譲らない。結局は、GHQから指示のメモが出され、その主張どおりに職業安定法施行規則の第4条が改正された。
GHQの労働者供給事業絶滅への取組みは、すさまじいものがあった。疑義解釈や産業別認定基準などの通達は、すべて事前承認が必要とされた。GHQの担当官コレット氏や都道府県の地方軍政部の係官は、みずから現場の認定に立ち合うこともあった。労働力主体の作業を行う建設、港湾運送、陸上運送などの業界では、「コレット旋風」といって恐れたものである。公共職業安定所でも、馴れないこの業務の遂行には大変な苦労があった。
労働者供給事業の禁止措置は次第に厳しくなる。当初は労働者供給事業を行う者にのみ罰則の適用があったが、昭和23年に法律が改正され、労働者の供給を受けた者にも罰則が適用されるに至った。脱法的な措置の禁止も明示された。しかし、講和発効後には、解釈をやわらげるための施行規則の改正が行われ、産業別認定基準もすべて廃止された。労働力中心の請負を労働者供給として規制するには無理が多く、かつ企業の運営を阻害するとの趣旨からであった。
明治から昭和にかけて、繊維工場などの人集めに悪名の高かった周旋人による募集は、職業安定法上委託募集として取り扱われる。委託募集はその弊害を考え、一部の例外を除いて不許可の方針がとられた。その例外とは、例えば地域の商店会などが共同で募集し、その商店会の事務局員が募集従事者になるような場合である。
民営の有料職業紹介事業は、職業安定法施行規則に定められた特別の技術を必要とする職業についてのみ許可されることになった。この許可対象の職業は、当初は11職種にすぎなかった。その後、公共職業安定所のあっ旋の能否が斟酌されて、指定職種の範囲は広がった。
占領中のある時期に、検番の行う芸妓のあっ旋を、有料職業紹介事業として許可したことがあった。これは、芸妓は許可対象の演芸家(英文ではEntertainer)に該当するとのGHQの強い示唆があったからである。このため、芸妓を求職者、お客を求人者、検番を職業紹介事業を行う者とみなして許可を行った。しかし解釈や運営面に問題も多く、講和発効後の昭和29年に、芸妓は有料職業紹介事業の許可の対象から除外された。