第5章 昭和時代(2)(戦後占領期)
労働行政の歩み
戦時体制の解除
太平洋戦争が終わって平和が訪れると、労働行政は大きく変貌する。日本を占領したGHQは、矢継ぎ早に占領政策を発表し、その断行を日本政府に迫った。労働の民主化策も、日本の民主化のための重要な柱として推進された。労働行政関係でまず真っ先に取り組んだのが戦時体制の解除である。それは戦争遂行のためにとられた労務統制の徹廃から始まった。戦時中は国家総動員法に基づいて、労働力不足に対処するための統制や徴用、勤労動員が間断なく行われたものである。賃金や労務管理にも、厳しい規制が行われた。戦時のこうした制度は、民主化策を進めるには全くの障害となる。GHQは、終戦直後の昭和20年11月に、戦時労務統制の撤廃を厳重に指令してきた。
次いで労働の民主化のための主要な具体策として取り上げられたのは、民主的な労働組合の育成と労働における非民主的制度の排除であった。
戦時統制法規の廃止にあわせて、昭和20年9月に産業報国会及び労務報国会の組織の解散の措置がとられた。いずれも戦時中労使一体を強調して、産業報国運動を推進した団体であった。
また、いわゆる“労働パージ”が、昭和22年12月以降実施された。これは、戦時愛国的労働団体の主要な役職員であった者については、戦後の労働に関する団体の役職員への就職を禁止し追放したものである。この就職禁止該当者の数は2万1,195名に上った。
労働組合法の制定と労働運動
戦時統制法規の廃止に伴って、新しい労働行政の基本となるべき労働法規が次々と制定されていった。いち早く成立したのが、労働組合法(昭和20年12月)である。大正の末期から、国会へ提案のつど不成立に終わっていた労働組合法が、ようやく誕生したわけである。昭和21年10月には、労働関係調整法が施行された。こうして、労働組合の結成とその運動に、法的な根拠が与えられた。労働争議が起こった場合に、調停、あっ旋、または仲裁を円滑に行うしくみも出来上がったわけである。
このような情勢の中で労働者の組織化が急速に進んだ。終戦のわずか4ヵ月後の昭和20年末には、戦前の最高の規模に近い509の組合が結成され、組合員は38万人を数えた。その頃の労働組合の組織化の状況は次のとおりである。
組合数 | 組合員数(千人) | |
昭和20年末 | 509 | 380 |
21年末 | 17,266 | 4,296 |
22年末 | 23,323 | 5,692 |
23年末 | 33,926 | 6,677 |
24年末 | 34,688 | 6,655 |
25年末 | 29,144 | 5,774 |
労働組合がこのように急増したのは、もちろん労働者の労働運動へのめざめが最大の要素である。それに加えて、GHQの勧奨や支援が強力な促進剤となった。その上に労働組合の全国的中央組織の設立の気運が高まる。昭和21年8月には、日本労働組合総同盟と全日本産業別労働組合会議が結成、昭和25年7月には日本労働組合総評議会(総評)が生まれた。
労働組合の勢力が強まると、その活動も激化した。労働者意識の高揚に、インフレ、低収入、衣食住の窮乏による生活苦、失業情勢の深刻化などが加わり、それに政治情勢がからんだからである。労働組合結成、即労働争議突入といったような例もよく見られた。暴力行為を伴ったり、生産管理などの事業管理を行う争議が激増した。その様相は一般に極めて激しいものであった。昭和21年度上半期に争議行為を伴った労働争議は486件、そのうち事業管理は225件(46%)に上っている。その頃の特異な労働運動や労働攻勢の事例を紹介してみよう。
- ○復活メーデー 昭和21年5月、11年ぶりにメーデーが復活。スローガンは政治色が濃く、内閣打倒、民主人民戦線結成、食糧の人民管理等。
- ○食糧メーデー 昭和21年5月、飯米獲得人民運動としての大衆動員。この動員は宮城に迫った。
- ○読売新聞争議 第1次(昭和20年10月、戦争責任を明らかにするための幹部の退陣要求闘争)、第2次(昭和21年6月、編集局長等の解雇反対闘争)。
- ○国鉄争議 昭和21年9月、国鉄7万5,000人の解雇の拒否闘争。
- ○海員争議 同年9月、海員6万人の解雇の反対闘争。
- ○電産争議 同年10月、電気産業における最低賃金制確立等についての要求闘争。
- ○10月攻勢 同年10月、新聞通信放送労組、電産労協の争議を核として、産別会議傘下の組合による大規模な共同の波状スト闘争。
- ○2・1ゼネスト 昭和22年2月、官公庁労組の待遇改善闘争が全労働組合規模のゼネストに発展したもの。決行前後(1月31日)にGHQマッカーサー司令官の指令でスト回避。
- ○3月攻勢 昭和23年3月、新給与ベースを拒否した官公庁労組が中心となり、2・1ゼネストに匹敵する闘争を企図。しかしGHQマーカット経済科学局長の覚書通告によりスト回避。
戦後初の経営者団体として、昭和21年6月に関東経営者協会が設立され、その後産業別や地域別の経営者団体の誕生が相次いだ。2・1ストを契機に経営者団体の全国的結集が急がれ、昭和22年5月には労働対策を連絡調整するための経営者団体連合会(経営連合)が設立された。翌23年4月、経営連合は、日本経営者団体連盟(日経連)と改称改組された。専門的労働対策機関としての体制を整えるためであった。
昭和22年9月、初代米窪満亮労働大臣は、いわゆる“米窪三大政策”を発表した。①危機突破生産復興運動、②闇撲滅運動、③労働争議の早期かつ平和的解決、というものである。この政策を進めるに当たり、政府は労働組合に積極的協力を呼びかけ、その一方で労働教育の推進を図った。労働教育は、労働組合運動における労働組合の自主性、民主性、責任性を強調するものであった。この時代の労政行政は、労働教育の浸透と健全な労働組合の育成に主眼が置かれ、それが行政の基本パターンとなっていた。
労働基準法の制定と労働保護行政
戦前の労働保護の基本法規であった工場法は、戦時中は特例でその機能を停止されていた。戦時特例は戦後に廃止される。しかし工場法を復活するだけでは、新しい時代の要請にこたえることは出来ない。近代的な労働保護法規の制定が急がれた。こうして昭和22年に、労働基準法と労働者災害補償保険法が施行される。労働条件決定の基本原則と最低の労働条件を明確にする基本法が生まれ、あわせて労働災害を補償する保険制度が誕生したわけである。GHQの勧告や指導もあり、抜本的なものだった。
労働基準行政の運営は、当初は新法の普及に重点が置かれた。それが次第に指導的監督の段階に変わり、やがて司法警察権の行使も辞さない本格的な監督の実施に移っていった。その頃の主な監督対象の例としては、賃金の遅払不払、人身売買、強制労働、中間さく取などがあげられる。作業の安全衛生のキャンペーンにも重点が置かれた。昭和21年には戦後初めての全国安全週間が復活し、同25年には第1回の全国労働衛生週間が開かれた。
婦人少年行政、職業訓練行政、ILOへの再加入
婦人及び年少労働者の保護行政も、労働基準法の施行により再出発し、昭和22年に女子年少者労働基準規則が制定された。同年、労働省の新設とともに、婦人少年局が設置され、婦人の局長が誕生した。日本の行政機構の中で、女子と年少者を初めて専門に扱う部局の発足で、婦人少年行政はめざしく進展した。行政運営のポイントは、働く婦人の啓発、働く年少者の保護、婦人の地位の向上等に置かれた。昭和22年には働く年少者の保護運動が、同24年には婦人週間が、それぞれスタートした。
職業訓練については、当時は、事業場が行う技能者の養成は労働基準サイドで、失業者や新規学校卒業者には職業補導と称して職業安定サイドで、それぞれ分かれて訓練が行われていた。アメリカ伝来のTWIによる監督者訓練も、職業安定行政の一環としてこの時期から普及し始めた。
統計調査活動は、労働行政の進展につれ活発化した。賃金、雇用のほか労働関係各般についての統計調査が拡充されていった。昭和24年には「戦後労働経済の分析」が発表された。労働経済の推移を広い分野にわたり分析記述したものである。これはその後、毎年継続して公表されることになった。
国際労働関係としては、昭和26年(1951年)にILOへの再加盟が実現した。昭和13年にILOを脱退していた日本の、13年ぶりの復帰が認められたわけである。
労働行政機構の改変
新しい時代の行政施策を進めるには、それにふさわしい組織や機構が必要である。法体系の整備に合わせて、中央・地方の労働行政機構の整備が相次いだ。
戦時中の労働行政は、中央では厚生省の勤労局の所管で、終戦直後は労政局と勤労局に分かれた。昭和22年9月1日には、労働省が新設される。初代の労働大臣は米窪満亮氏(社会党)である。その時の内閣は、社会党首班(片山哲総理)で、民主党及び国民協同党との連立であった。
- 初代の米窪労働大臣は、労働省の開庁式で、全職員に次のような趣旨の訓示を行っている。「労働省新設の意義は、労働者の福祉と職業の確保を図り、労働の生産性を高め、経済の興隆と国民生活の安定に寄与することにある。その意味から労働省の使命は重く、職員の任務も大きい。
- 英国の労働省は正式の呼称を、“労働及び社会奉仕省”といい、サービス省である。我が労働省も各省に範を垂れるサービス省に徹し、さらに能率省として仕事の能率の増進に努め、スピーディに仕事をしてほしい」
労働省の新設は、占領当初からのGHQの基本方針であった。しかしその誕生はかなり難航した。日本政府の一部には厚生省の外局としようとする案などもあり、かつ所管事項についても意見の相違があったからである。GHQとの折衝や、政府部内の調整が繰り返されて、ようやく労働省の誕生が実現した。新設された労働省には、大臣官房のほか、労政、労働基準、婦人少年、職業安定、労働統計調査の5局が置かれた。
関係省庁の間で、労働省の所管事項について争いのあった主なものに、次のようなものがあった。
○労働者災害補償保険、失業保険(厚生省との間で)
○船員労働、船員保険(運輸省との間で)
○労働関係統計(内閣統計局との間で)
○鉱山労働(商工省との間で)
労働行政の地方機構は、終戦直前は都道府県庁では警察部が所掌し、第一線機関は国民勤労動員署と警察署であった。終戦後に、労働行政事務は、警察部から内政部へ移される。職業安定行政の第一線機関であった国民勤労動員署は昭和20年10月、勤労署と改称した。そしてそれまで警察署で所掌していた労政と労働保護の業務を受け継いだ。昭和22年4月に勤労署は公共職業安定所と改称される。それと同時に都道府県の出先機関として労政事務所が新設され、労政、労働保護の関係業務を所管することになった。
昭和22年5月、都道府県には地方労働基準局が、第一線には労働基準監督署が新設された。労働基準法施行機関である。
婦人少年行政では、昭和22年11月に、都道府県ごとに婦人少年局職員室を新設した。これは同27年に都道府県婦人少年室と改称された。
職業訓練行政の必要な第一線機関は、都道府県立の職業補導所であった。昭和22年11月には、それが公共職業補導所と改称された。